地方大会の組合せ抽選会がスタートし、20日には沖縄大会も開幕する、今年の夏の高校野球。その前身の「第1回全国中等学校優勝野球大会」が開幕してから100年の今夏、『週刊野球太郎』では無謀にも、100年間に行われた決勝戦を全試合レビューしている。
第3回目の今週は1929年に行われた第15回大会から、第21回大会の決勝戦の結果をお伝えしよう。
1929年(昭和4年)
――第15回大会決勝
広島商|000|000|300|3
海草中|000|000|000|0
第10回大会で優勝した広島商が、再び栄冠を掴んだ。前回優勝時の石本秀一監督が復帰し、チームは猛練習を積んだ。その厳しい練習内容は、数々の伝説として残っている。
前年に続いて、広島商が優勝。翌年のセンバツも制して夏春連覇を達成するなど、黄金時代を築いた。決勝では3回に2点を先取するも、諏訪蚕糸は8回に同点に追いつく。
しかし、9回に広島商が鍛え抜かれた精神力で諏訪蚕糸を圧倒。三塁ゴロ悪送球から、捕逸、野選、四球、失策と動揺する相手を足でかき回し、一挙6点を奪って勝ち越し。“刃渡り”のほか、火が残る炭の上を歩くという“火渡り”まで練習に取り入れ、精神力を鍛えてきたというから、恐れ入る。
1931年(昭和6年)
――第17回大会決勝
嘉義農林|000|000|000|0
中京商 |002|200|00×|4
決勝戦は中京商と台湾代表の嘉義農林が激突。前々回の第15回大会では、台北一中がベスト4に進出するなど、力をつけてきた台湾勢。嘉義農林は内地人、本島人、高砂族の三種族の選手でチームを構成しており、特に高砂族の身体能力の高さは、大いに評判を呼んだ。日本人選手と比べると、大柄で巨漢選手が揃っており、パワフルな野球は人気となった。
(この時の活躍ぶりをまとめた映画が『KANO 1931海の向こうの甲子園』だ)
決勝戦は、希にみる好カードが実現した。春のセンバツで優勝した松山商と、昨夏の覇者・中京商が激突。松山商は春夏連覇がかかり、中京商は夏の大会2年連続優勝がかかっていたのだ。しかも両校がそれぞれ優勝した大会で直接対戦しており、前年の夏には中京商が、春のセンバツでは松山商が勝利しており、甲子園での通算成績は1勝1敗の五分五分。ファンの興味を引きつけた。
試合は予想通り、白熱した展開に。中京商が先制するも、土壇場の9回表に松山商が3点を奪って同点。しかし、延長11回裏、中京商は2死から四球、安打でチャンスを広げ、続く桜井寅二がサヨナラタイムリー。球史に残る熱戦を制して、中京商が連覇を達成した。
1933年(昭和8年)
――第19回大会決勝
平安中|000|010|000|1
中京商|200|000|00×|2
この大会で、不滅の3連覇を達成した中京商。準決勝は、今でも語り継がれる延長25回の死闘を制しての優勝であった。特に3年連続でエースを務めた吉田正男は、その準決勝で336球も放った翌日、決勝のマウンドに登った。
疲労困憊の吉田。10四球を与える乱調ぶりも、平安中をわずか2安打に抑える神がかった投球をみせる。野手陣も疲れた体にムチを打って、吉田を盛り立てた。結果、平安中のエラーで奪った初回の2点が大きくモノをいい、1点差で優勝を果たしたのだった。
1934年(昭和9年)
――第20回大会決勝
熊本工|000|000|000|0
呉港中|000|020|00×|2
第20回の記念大会の決勝は、後にプロ野球を沸かせる名選手たちの対決となった。熊本工には川上哲治(元巨人)が、呉港中には藤村富美男(元阪神)が在籍しており、主力選手として大活躍。両校とも初めて、決勝にコマを進めた。
試合は藤村の快速球が冴え渡り、2安打1四球14奪三振の好投をみせた。呉港中は5回裏に暴投とスクイズで2点を先取。藤村にはこの2点があれば十分だった。川上は3打席連続三振で、対決は藤村に軍配があがった。
1935年(昭和10年)
――第21回大会決勝
松山商|100|500|000|6
育英商|100|000|000|1
1925年、1931年にそれぞれ、センバツで優勝していた松山商。実力がありながら、夏の大会ではなぜか優勝に手が届かなかった。しかし、この年、1919年の初出場以来、17年かけて、ついに悲願達成。
試合の方は、両校とも初回に1点ずつを取り合った後、ジワジワと実力を発揮する松山商が4回に一挙5点を奪い、そのまま押し切った。
初優勝の理由は、森茂雄監督の手腕によるところが大きい。森は松山商を優勝に導いた事が評価され、球団創設したばかりの阪神タイガースの初代監督に就任。正月以外は毎日練習を続け、OBの景浦将(元阪神)が帰郷すると、後輩たちに猛ノックを浴びせたという。
★★★次回は第22回〜第29回大会の決勝戦の模様をお伝えします。
(文=編集部)