ミャンマーという国の名を聞いてピンとくる人は多くはないだろう。国際政治に興味のある人なら、軍事政権に抗する女性民主活動家、アウンサンスーチー氏の名を思い浮かべるかもしれないが、野球ファンとっては、まったく未知の国と言っていい。
この国出身の「プロ野球選手」がいる、と聞いても、にわかには信じがたいだろうが、四国アイランドリーグplusの強豪・香川オリーブガイナーズのメンバーとして、名を連ねているピッチャーがいる。ゾーゾー・ウー、25歳。
彼が野球に出会ったのは12歳の時。国連職員としてこの国に赴任してきた日本人の手ほどきによるものだった。
「やってみたら、とにかく面白かった」と、ウーはいう。投手になったのは、上背のある兄たちに打つ方ではかなわず、この日本人指導者から勧められたからだった。
「それに左利きだったからね」
左投げの投手がほしかったということではなかった。守備のことを考えると、左利きは、外野手や一塁手という打力を求められるポジションにつかざるを得ない。年長者に交じって、プレーをする体の小さな少年を何とか試合に出してやろうという親心が、ミャンマーを代表するサウスポー、ゾーゾー・ウーを誕生させた。
しかし、この「抜擢」は意外な結果を生んだ。草創期のミャンマー野球にあって、ストライクを取れる制球力はトップレベルを意味した。たちまちウーは、国を代表する投手となった。
日本に来るきっかけはひょんなことだった。四国アイランドリーグplusのCEO・鍵山誠氏が、現地で野球普及活動をしていた先ほどの元国連職員と出会い、選手の受け入れを承諾したのだ。
練習生などではなく、選手としての挑戦だったが、現実は厳しかった。そもそもの野球経験が少ない彼のレベルは、独立リーグとはいえ「プロ」のそれにはほど遠かった。最速が115キロのストレートは、ミャンマーでは「剛球」だったかもしれないが、野球先進国の日本では草野球でも珍しくない。それでもコーチの伊藤秀範(元ヤクルト)の指導を忠実に守り、走り込みと腹筋運動中心のトレーニングを重ねた結果、フォームが安定し、ストレートは130キロを超えるようになった。
その「恩師」、伊藤コーチについて話を向けると、「ヤサシクナイケド、コワクナイ。ワタシ、ガイコクジンダカラ」といたずらっぽく笑う。都合が悪い時は、わかっているのか、わかっていないのか、あいまいな返事をしてやり過ごすらしい。そう言いながらも、ひたむきに野球に取り組むウーの姿勢は、指導者、チームメイトにも届いた。ストレートに加え、スライダーをマスターし、それなりに試合を作れると判断されたウーは、マウンドを任されるようにもなった。
「一番印象に残っている試合は?」の問いに対しウーが挙げたのは、昨シーズンに挙げた初勝利ではなく、ルーキーイヤーの初先発だった。来日初登板のリリーフでは、簡単にヒットを打たれ、即降板という屈辱を味わった。レベルの違いを痛感したウーは、フォームの改造に取り組み、努力を積み重ねた。プロとしての「合格祝い」として与えられたまっさらのマウンドで、2回途中までノーヒットピッチングを演じたのだ。
慣れない異国での生活だったが、ファンや球団スタッフにも支えられ、さほど困ることはないという。故郷・ミャンマーのものとは違う日本米も、むしろその方がおいしいとも思えるようになった。卵の炒めものを中心におかずも自炊しているという。
実は来日以来、帰国は一度もしていない。物価の高い日本では、生活費を使うとあとは何も残らず、ミャンマー行きのチケットも買えない。
「(給料を)モラウ、(生活費で金が)カカル、モラウ、カカル」
とウーは笑う。シーズンオフは支援者の経営する介護施設で研修しながら、トレーニングの毎日だった。今季が終われば、3年ぶりにミャンマーへ帰るつもりだ。来年のプレーについては未定。日本に来て上手くなったことは実感しているが、今以上のレベルに行けるか? となると厳しいことは自覚している。同じタイミングでシンガポールから帰ってくる姉とビジネスを始めるのもいいかなとも考えている。