沖縄や北海道では、早くも地方大会がスタート。甲子園出場をかけた戦いが始まった。その前身の「第1回全国中等学校優勝野球大会」が開幕してから100年が経過する今夏、『週刊野球太郎』では無謀にも100年間に行われた決勝戦を全試合レビューしている。
第4回目の今週は、1936年に行われた第22回大会から、幻の大会とよばれる学徒体育振興会大会の決勝戦を伝えよう。
1936年(昭和11年)
――第22回大会決勝
岐阜商|003|006|000|9
平安中|010|000|000|1
1回戦で盛岡商に大勝した岐阜商(現県岐阜商)。続く試合も鳥取一中、和歌山商、準決勝の育英商を全く寄せつけずに楽勝。決勝は優勝候補同士の平安中との間で行われた。
スコアのとおり、岐阜商は決勝でも相手を圧倒。投手力に不安のある平安中を打ち砕いた。岐阜商は4試合で47得点をあげ、失点はわずか4と、楽々の優勝。東海勢の力を全国に知らしめた。
1937年(昭和12年)
――第23回大会決勝
熊本工|000|000|001|1
中京商|020|001|000|3
前年の岐阜商に続き、同じ東海地区の中京商が優勝。「甲子園で勝つよりも、東海地区予選で勝つことの方が難しい」といわれた時代だった。
その東海大会を勝ち抜いた中京商はもちろん、優勝候補に推されていた。予想通り決勝まで進んだ中京商は、川上哲治(元巨人)を擁する熊本工と対戦。2回にチャンスを掴んだ中京商は川上から先制点を奪う。そのまま押し切って全国制覇を果たした。中京商は甲子園に4度出場して4度とも優勝するという大記録を打ち立てた。
1938年(昭和13年)
――第24回大会決勝
岐阜商|000|000|001|1
平安中|000|000|002×|2
「東海を制したものは全国を制す」といわれていたほど、強かった当時の東海勢。この大会でもその言葉は健在で、決勝には岐阜商が進出した。
対するのは2年前の決勝戦で、その岐阜商に敗れた平安中。まさに因縁のカードとなった。試合は8回まで0−0の白熱した展開。9回表に岐阜商が1点を先取し、最終回の守りにドラマが生まれる。優勝を意識したのか、岐阜商の左腕・大島信雄(元松竹ほか)が連続四球を与えてしまった。さらに内野陣の乱れで、平安中は走者二、三塁のチャンス。続く保井浩一の打球は、二塁後方にテキサスヒットに。2人の走者が生還し、平安中が見事、サヨナラ勝利を収めたのだった。
1939年(昭和14年)
――第25回大会決勝
海草中|002|000|201|5
下関商|000|000|000|0
この大会も前年に続いて海草中が優勝した。前年のエース・嶋清一が卒業し、替わってエースの重責を担った真田重蔵(元松竹ほか)の好投が光った。
決勝は、前年の準決勝と同じ顔合わせとなった。前年は8−0のノーヒットノーランで勝っていた海草中だが、この試合では反対に島田商が押し気味の展開で試合は終盤へ。ここまでなんとか守り切っていた真田と海草中。7回の攻撃は2死から、なんでもない内野フライを島田商の遊撃手と三塁手が譲り合って落球。ここから勝ち越し点をもぎ取り、そのまま勝利。2年連続夏の甲子園制覇を果たしたのだった。
1941年(昭和16年)
――第27回大会は戦争により中止
この年も例年通り、甲子園大会は8月13日開幕の予定で、各地で地方大会が進んでいた。しかし、第二次世界大戦の戦局が次第に悪化。軍部が日本国内を移動する際、それを優先するために交通手段を制限することになり、その影響で甲子園は中止となってしまった。
中止が発表されたのは、7月13日のこと。すでに地方大会が進んでいる地区もあり、33地区で大会を挙行。兵庫大会などは中止した。地方大会の優勝校は、残念ながら甲子園の土を踏むことはできなかった。
1942年(昭和17年)
――学徒体育振興会大会
平安中|100|001|040|01 |7
徳島商|010|000|500|02×|8
戦局はさらに悪化し、日本は未曾有の緊急事態を迎えることになる。その影響で、この年は春のセンバツも夏の甲子園も、文部省の指示で中止が決定。代わりに8月12日から、文部省とその外郭団体である学徒振興会の主催で、甲子園球場で野球大会が開かれたのだった。
出場校はわずか16校で、雨の影響で準決勝と決勝を1日で消化。優勝したのは徳島商だった。6−6の同点で迎えた延長11回表、平安中は1点を勝ち越し。しかし、その裏、連投で疲労困憊の富樫淳を攻略した徳島商は同点に追いつき、さらに2死満塁のチャンス。決勝点はなんと、押し出し四球によるものだった。
★★★次回は戦後初の大会となった第28回〜第34回大会の決勝戦の模様をお伝えします。
(文=編集部)