「超変革」を貫徹する金本知憲監督が惚れ込んだ男は強肩強打の内野手。持ち前の素直さと吸収力で大学時代に急成長を遂げたスラッガーは、今春リーグ新記録の8本塁打を記録。驚きのドラフト1位に至った。
「白鴎大にきていなかったら、今の自分はありません。自分の人生を変えてくれました」
関東地区大学野球選手権2回戦の中央学院大戦で敗れ、4年間の大学野球生活を終えると、大山は一つひとつの質問に丁寧に答えながらこのように語り、目には光るものがあった。
大山はこれまで、全国的な注目はほとんど浴びてこなかった。
茨城県西部の結城郡千代川村(現下妻市)で生まれ、高校まで野球をしていた父の影響で近所の宗道ニューモンキーズで野球を始めた。
「楽しいから」という単純な理由で野球を続けていたが、千代川中軟式野球部時代には、Kボールの「オール茨城」に選抜され、佐藤拓也(立教大)や諏訪洸(亜細亜大)らとともに、全国大会で3位に入賞するなど、その能力を徐々に発揮し始めた。
高校は塚原頌平(オリックス)に憧れて、つくば秀英に入学した。だが、2年夏に遊撃手兼投手の主軸打者として県8強入りしたものの、3年間で複数回の監督交代などもあり低迷。最後の夏は、ストレートの最速が140キロを超える本格派右腕、高校通算30本塁打のスラッガーとして投打で注目されていたが、初戦の土浦三戦で同点の場面で登板するも、勝ち越し打を浴び、敗れた。
「まさかというか呆然というか、実感が湧かなかったですね」と話すようにあっさりと夏が終わり、大阪桐蔭・藤浪晋太郎(阪神)ら同期の選手が活躍する甲子園をテレビで観て、「すごいなあ」と別世界のような感覚で見つめていた。
「ダラダとやっているところがあったので、ウチでは無理だろうと思いました。でも、ウチで預からないと、この選手はダメになるだろうとも思いました。まずは、全力でやらない感じの部分をなんとかしないといけないなと」
白鴎大の黒宮寿幸監督(昨年までは助監督)は高校時代の大山の印象を率直に語る。高校から同じチームでプレーしていて、当時はチームで4、5番手投手の中塚駿太(西武2位指名)に抱いた「投げるボールがキラキラ光って見えた」という印象とは対照的なものだった。
大山自身も「高校時代は本気でやっていなかったわけではないのですが、そこまで執着心を持ってなかったと思い、後悔しています。もっと本気でやっていれば、変わっていたんじゃないかって」
一方で黒宮監督は、もっと緊迫した中で野球をやりたがっているような、くすぶった気持ちを大山の中から強く感じたという。
「だから、ウチでは追い込んでいかないといけないと感じました。起用しないと結果は出ません。結果が出たものに対して追い込んで、また起用しての繰り返しでしたね。あいつにはトコトン厳しくやりました」
例えば5打数4安打でも、最後の打席のチャンスで打てなければ「だったら5タコの方がまだいいよ」と叱り、フェンス一歩手前の打球を飛ばしても「あそこまで飛ばせるのに、なんでフェンスを越せないんだ」と、大山に厳しい声を浴びせた。
黒宮監督は「理不尽ですよね」と笑いながらも、「でも」と言って、熱を込めた話を続けた。
「フェンスを越えるか越えないか、そのたった2メートルが、チームの勝敗や彼の人生を変えるんです。ウチみたいなチームは“惜しいけど、いい選手だな”では通用しない。数字で結果を残していかないと、上の世界では評価されないんです」
こうした黒宮監督の情熱あふれる指導を受け入れる素直さ、吸収力が大山にはあった。
入学直後の1年春から三塁手として定位置を与えられると、打率.339でいきなりベストナインを獲得した。以降も妥協を許さない黒宮監督の指導に食らいつき、持ち味の打撃力に磨きをかけていった。
次回、「同僚からの刺激」
(※本稿は2016年11月発売『野球太郎No.021 2016ドラフト総決算&2017大展望号』に掲載された「28選手の野球人生ドキュメント 野球太郎ストーリーズ」から、ライター・高木遊氏が執筆した記事をリライト、転載したものです。)