二刀流である限り、大谷翔平(エンゼルス)は歴代上位となる大記録を残せない。大記録こそが偉大な選手の証だ。大谷を巡っては“大記録未達成”を危ぶむが故に、こんな声が聞かれる。ここまで凄すぎる投打で周囲を黙らせてきたが、大谷の周囲には常にザワザワ感が漂う。
このザワザワ感は、進路を「メジャーリーグ一本」に絞った高校3年秋の大谷を見て、周囲が対応に困ったときから続いている気がしている。
とはいえ、大谷の「二刀流」は道半ば。その先に広がる景色、結末は、まだ誰も目にしたことのないものだ。そこで週刊野球太郎では、高校時代の大谷の素顔、揺れる思い、凄みを振り返りつつ、35歳になった時の大谷の通算成績を予測したい。高校時代から大谷を取材してきたライター・菊地高弘氏が大谷の「高校時代と35歳の姿」に迫る。
〈花巻東、初戦で敗れましたが、6回から投げた1年生・大谷翔平投手は衝撃でした。はっきり言って怪物です。1年生を誉めすぎるのは怖いですが、資格は十分あると思います。球界の宝であるダルビッシュのような投手になってほしい。 #kokoyakyu〉
これは2010年10月8日、13時59分にツイッター上で発信した私のツイートである。
この日、高校野球の秋季東北大会1回戦を取材した私は、今まで野球を見てきたなかで最高の興奮に包まれていた。
実感としては「見てしまった――」。気を抜けばふにゃふにゃと腰を抜かしそうな体を理性でなんとか立て直し、極力平静を装って冒頭のツイートを発信したのだった。
噂には聞いていた。花巻東に入ってきた1年生が凄いらしいと。しかも、打撃も投球も好素材で、入学して夏までは成長途上の体を第一に考え、野手に専念。秋から本格的に投げ始めるという情報だった。
しかし、私ははっきり言って半信半疑だった。花巻東はその前年、菊池雄星というNPB6球団が重複1位指名するような逸材を輩出していたからだ。いくらなんでも、岩手の同じ高校からこんなに短いスパンで逸材が出現することはないだろう――。そう高をくくっていた。
しかし、その大谷翔平という名前の1年生は、私の小市民的な発想を軽く突き破ってみせた。
1球見ただけで、十分だった。当時は191センチ70キロと、とにかく細い体型だったが、四肢を踊るようにしならせるフォームは極めて美しかった。そして、しっかりと指にかかったストレートは、右打者のアウトコース低めから加速してくるように捕手のミットを突き上げた。
おそらく誰が見ても「こいつはものが違う!」と思えたはずだし、たとえ野球を初めて見た人でも凄みが伝わるほどのボールだったはずだ。
私の中で、第一印象は完全に「投手・大谷翔平」だった。
幸運にもその試合を見た数カ月後、大谷翔平にインタビューする機会に恵まれた。彼は「1人でインタビューされるのは初めてなので緊張しています」と初々しく語ってくれた。
話してみた実感としては、「のんびりとした高校生だな」ということだった。立て板に水の如く言葉が流れ出る聡明な菊池雄星に比べ、大谷は言葉に詰まるシーンが目立ち、語彙も平凡だった。
しかし、印象的な言葉があった。「どんな選手になりたいですか?」という質問をしたときのことだ。大谷はこう答えた。
「世界に通用する野球選手になりたい」
まるで野球の神から「いつか誰かに聞かれたらそう答えなさい」とでも言われていたのだろうか。今となってはそう思えるような、予言めいた言葉だった。
こんな才能、たちまち全国区になってしまうに違いない。そう信じて疑わなかったが、大谷はその後、足踏みの時期を過ごすことになる。
2年夏の直前には股関節を痛めた。後に「左股関節骨端線損傷」と診断されることになる故障は、大谷から躍動感を奪った。2年夏の甲子園は同僚投手陣の奮闘で出場したが、初戦の帝京戦に登板した大谷のフォームは無惨だった。
股関節が痛いから強く踏み込むことができず、短いステップから上半身だけを使って投げ込む。痛々しくて見ていられなかった。本来の姿とは程遠い状態では当然、世間に衝撃を与えることはできなかった。
この故障は尾を引き、翌春センバツも踏み込むことを恐れたようなぎこちないフォームで大阪桐蔭に敗戦。一方、ぐんぐんと評価を高めたのは打撃面だった。
投手としての練習ができない時期、大谷は打撃練習を積んだことでもともと高かった打力に磨きがかかったのだ。春のセンバツでは藤浪晋太郎(現阪神)からホームランを放った。あるスカウトは「松井秀喜(元巨人ほか)クラスの打者になる」と太鼓判を押したほどだ。
本人はいつ聞いても「投手が一番好きです」とこだわりを口にしていたが、思わぬスカウトの好評価には揺れ動いたようだ。いつしか「夢と現実のギャップを感じます」と悩みを口にするようになった。
高校最後の夏の大会では投手として復調し、岩手大会で160キロをマーク。投球フォームも以前のような美しさに加え、力強さも増していた。ようやく「投手・大谷」として高校野球界を戦慄させたが、岩手大会決勝で盛岡大付に敗れ甲子園出場はならず。そしてドラフト会議が近づくにつれ、メディアは「大谷は投手か? 打者か?」という視点で騒ぐようになった。
しかし、秋のドラフト会議を4日前に控えた2012年10月21日、大谷はある大きな決断をする。
それは進路を「メジャーリーグ一本」に絞ったことである。
その一報を耳にした瞬間、まず頭に浮かんだ感想は「やっぱりな」だった。大谷が会見を開く数日前、私は大谷に好きな授業について聞いてみた。すると、大谷は「日本史」を挙げ、こう続けた。
「特に幕末が好きですね。日本が近代的に変わっていくための新しい取り組みが多くて、歴史的に見ても大きく変わる時代。『革命』や『維新』というものに惹かれるんです」
「人のやったことのないことを成し遂げたい」。この欲求が大谷翔平というアスリートの芯を貫いている。
だから、ドラフト会議で大谷を強行1位指名した日本ハムが「二刀流」という選択肢を用意したことは、大谷を日本に留まらせるための唯一無二の策だった。
ドラフト指名から2年後、大谷に「日本に留まってよかった?」と聞くと、大谷は真顔でうなずいて「それは絶対にそうだと思いますね」と答えた。
そして大谷の日本ハム入団という決断は、野球ファンにとっても幸運なことだった。日本ハムという球団のおかげで、我々野球ファンは投手と野手でそれぞれベストナインを受賞してしまうような男のプレーを5年間も享受できたのだから。
私はこれから先、もし長生きして50年後に生き残っていたとしても、自慢し続けることだろう。
私は、あの大谷翔平の高校1年時代を見たことがあるんだぞ――と。
文=菊地高弘(きくち・たかひろ)