「黒田、8年ぶりにカープへ復帰」
黒田は1975年2月10日、大阪で生まれる。父・一博はかつて南海ホークスで外野手として活躍していた。おのずと野球に親しんだ黒田は、父親が監督を務める硬式野球チーム「オール住之江」で中学時代を過ごし、その後、強豪・上宮高へ進学する。
黒田が入学する前年の上宮高は、元木大介(元巨人)、種田仁(元中日ほか)などを擁し、センバツでは準優勝で、夏の甲子園にも出場していた。1つ上の学年には中村豊(元日本ハムほか)、薮田安彦(元ロッテほか)。同学年は西浦克拓(元日本ハム)、筒井壮(元中日ほか)と後にプロ入りする選手が多数集う時代だった。とりわけ、西浦は下級生の頃から活躍し、投打の軸となっている選手。そのため、黒田は控え投手であり、高校時代は目立った成績を挙げていない。これだけの選手を擁した当時の上宮高だったが、黒田の在学中は甲子園に出場はできなかった。
後年、自身の姿に密着したドキュメンタリー番組で母校グラウンドを訪れた際、ブルペンのマウンドを見て「ここで投げるのが嫌だったな」と振り返った黒田。苦しい練習が続いた高校時代だったが、「投手・黒田」の土台を築いたのがこの3年間だった。
高校卒業後、黒田は当時東都大学リーグの2部だった専修大に入学。1年先輩には後に広島でともにプレーする小林幹英がいた。小林の活躍もあって3年秋のリーグ戦で優勝。1部昇格を果たす。
最終学年となった1996年春のリーグ戦。この年から神宮球場では大学野球の試合でもスピードガン表示がされるようになる。そこで、1部に昇格したばかりではあったが、黒田は150キロをマーク。一躍、プロのスカウトから注目を集めるようになる。他大学の同学年には、青山学院大の井口忠仁(資仁/ロッテ)、東洋大の今岡誠(元阪神ほか)らがいた。そんな中で、黒田は春、秋のシーズンで計6勝を挙げる。そして、ドラフト会議で広島から2位指名を受け、プロ入り。かつて父親がプレーした世界に身を投じる。
背番号15を身にまとった黒田は1997年4月25日の巨人戦でプロ入り初先発。1失点で完投し、プロ入り初登板初勝利を挙げる鮮烈デビューを果たす。以降、先発ローテションの一角として登板。6勝9敗と負け越したものの、1年目から規定投球回数に到達する。その後、2年間はなかなか結果が出ない時期が続くが、2000年に9勝を挙げると、翌2001年はプロ入り初の2ケタ勝利となる12勝と進化を遂げた。この年から3年連続で2ケタ勝利を挙げ、「エース」として認識されるようになる。
さらに2004年にはアテネ五輪日本代表に選出される。2005年、15勝を挙げ、初のタイトルとなる最多勝を受賞した。
翌2006年、FAの資格を取得した黒田の去就に注目が集まる。川口和久、江藤智、金本知憲と主力選手が流出しているだけに、広島ファンは「黒田はどうなるのか……」という思いが支配された。
そこでファンはシーズン終盤に行動を起こす。広島市民球場のライトスタンドにファンの思いを書いた巨大な横断幕、「15」と書かれた赤いプラカードを掲げて、黒田の残留を願った。それを見た黒田は意気に感じ、「カープの選手を相手に投げる自分が想像できない」と残留を表明した。
黒田は翌2007年オフ、海外FA権を行使しドジャースへ入団。投球スタイルを2シーム中心に変え、移籍3年目の2010年には11勝、翌2011年に13勝をマークした。ヤンキースに移籍すると、その安定感ある投球に円熟味が加わり、その在籍した3年間はいずれも2ケタ勝利で、ドジャース時代を含め昨年まで5年連続2ケタ勝利と結果を残し続けてきた。いや、結果を残し続けている、衰えをまだ感じさせない間に、広島に帰ってくる。メジャー7年間で79勝と、代表的な投手の一人となった黒田。果たしてどのようなピッチングを見せてくれるのだろうか? 今から開幕が待ち遠しい。
(2015年1月16日/スポニチ・アネックス配信)
http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/01/16/kiji/K20150116009631280.html