決勝翌日に甲子園開幕も……。雨が生んだ激闘、死闘、悲運。高校野球・地方大会「雨」物語
101年目の夏がやってきた。
全国各地で、夏の甲子園の切符をかけた戦いが続々スタート。甲子園本大会に負けず劣らずの熱戦が繰り広げられる各地方大会。甲子園の土を踏むために、選手たちは相手チームと戦い、ときにはベンチと戦い、そして自分との戦いにも勝たなければならない。
そしてもうひとつ、球児たちが対峙しなければならないものに「天候」がある。夏の日射しもなかなか手強いが、この時期ならではのものといえば、やはり「雨」との巡り合わせが外せない。
本稿では、過去、 100年の高校野球地方大会の歴史で、印象深い「雨」のエピソードを掘り下げていく。
雨がもたらしたとんでもない大会日程 〜昭和篇〜
「阪神大水害」。のちにそう呼ばれる大雨が降ったのは、1938(昭和13)年7月3日から5日にかけての3日間。あまりの雨量に川は氾濫し、神戸市を中心に阪神間の各市町村に甚大な被害をもたらした水害だった。
その影響は球児たちにも及んだ。どこの球場もグラウンドがぬかるんで使えず、交通網も麻痺したことから、7月中は試合開催が不可能に。兵庫大会がスタートしたのは、なんと8月3日のこと。決勝戦が行われたのは甲子園本大会が開催される前日の8月12日と、まさに綱渡りの日程になったのだ。
そんな過密スケジュールの兵庫大会を制したのは、エース・別当薫(後に大阪、毎日)を擁した甲陽中。決勝戦で滝川中の別所毅彦(後に南海、巨人)に投げ勝って全国大会出場を決めた。が、その翌日からもう甲子園が開幕。甲陽中ナインは正に着の身着のまま、真っ黒なユニフォームで入場行進に参加しなければならなかった。
雨がもたらしたとんでもない大会日程 〜平成篇〜
近年でも、雨で大会運営が過密になった事例は多い。そのひとつが2006(平成18)年の宮城大会だ。この年の宮城県には雨雲が停滞。3日間の予定だった3回戦を2日間に短縮するなど、どのチームもコンディション管理が大変だったという。
そんな過酷な日程を勝ち上がったのは、仙台育英と東北。宮城きっての2大強豪校による決勝戦は、7月28日に行われ……るはずだった。ところがこの決勝戦も雨天順延。しかも翌29日と30日は、決勝の舞台であるフルキャストスタジアム宮城(現・Koboスタ宮城)で楽天戦。決勝は7月31日にまで延期された。
迎えた決勝戦は史上稀に見る投手戦となった。0対0で両校エースが譲らず、試合は延長15回引き分け再試合に。翌8月1日の試合を6対2で仙台育英が制し、長かった宮城大会がようやく閉幕した。
そしてこの2日間をたった一人で投げきった仙台育英のエースこそ、現ヤクルトの由規。決勝1日目は15回で226球。2日間24イニングをひとりで投げきり、甲子園の切符を手に入れたのだ。
ちなみに組み合わせ抽選は決勝戦からわずか2日後の8月3日。仙台育英の初戦は大会2日目の8月7日。コンディショニングも相手チーム対策もままならないなか、由規は初戦で11個の三振を奪って勝利。華々しい甲子園デビューを飾った。
◎雨の影響で3日間に及んだ伝説の死闘
雨がもたらした、まさに“記録的な”試合がある。まだ外地からも甲子園に出場できた戦前の1941(昭和16)年、台湾大会2回戦・台北工対嘉義農林の一戦だ。
7月26日にプレイボールがかかった一戦は、両軍エースが好投して8回まで0対0。しかし、ここで球場を大雨が襲い、8回降雨引き分けとなった。
当時はサスペンデッドゲームのルールはなく、1日ごとに1回表から試合は再開。翌27日の再試合も投手戦となり、そして、デジャブのように試合終盤に大雨が襲い、今度は7回降雨引き分け。翌日の再々試合で決着をつけることになった。
ここまでの2日間15イニングで両チーム無得点だった試合が動いたのは、再々試合の3回。台北工がようやく初得点をあげた。対する嘉義農林も6回に1点を返して同点に追いつくと、ここからまたしても投手戦によるゼロ行進。決着がついたのはなんと延長25回裏、嘉義農林の主将・柴田が決勝打を放ってサヨナラ勝ちを収めた。雨の影響で3日間に及んだ死闘。その合計試合時間は5時間45分、イニングは40回。まさに、死闘と呼びたくなるゲームだった。
雨が騒ぎを大きくした!? 大谷翔平160キロ狂想曲
2006年の仙台育英・由規は、雨の影響で試合間隔が生まれ、万全の状態で決勝に臨めた、といえるかもしれない。だが、その逆のパターンもある。2012年の岩手大会、大谷翔平(現・日本ハム)のケースだ。
この年の岩手大会も雨の影響で何度も試合が順延。当初は7月18日に行われる予定だった決勝戦は一度19日へと順延が決定。その後も雨が続き、決勝戦が予定されていた19日に、ようやく準決勝が行われた。
この準決勝で歴史に名を刻んだのが、花巻東の大谷翔平。6回2死二、三塁のピンチで見逃し三振を奪ったストレートが「160キロ」を計測したのだ。大谷はこの準決勝を7回3安打1失点で7回コールド勝ち。決勝戦へと駒を進めた。
この年、決勝の舞台である岩手県営野球場では、7月23日にプロ野球オールスター戦が組まれていた。その準備の関係もあり、決勝戦は25日開催となった。さらにその25日にも雨が降り、26日へと順延された。
準決勝から決勝まで、中6日。プロの投手であればちょうどいい登板間隔といえるが、連戦を想定していた高校生には難しい間隔だ。もちろん、条件は相手チームも一緒ではあるのだが、大谷の場合は、「準決勝での160キロ」で世間の注目度は別格。日程が後ろにズレればズレるほど、期待はさらに高まり、その期待が大谷にプレッシャーとして襲った……。そんな想像は難しくない。
実際、決勝戦の大谷は制球がいまひとつ定まらず、3ラン被弾を含め5失点。盛岡大付に敗れ、最後の夏、甲子園の土を踏むことは叶わなかった。
今年の夏は、地域によっては例年にも増して雨の日が多い。「恵みの雨」とできればいいが、雨のせいで負けた、と涙に暮れる選手も出てくるはず。それもまた、高校野球のひとつの物語だ。
文=オグマナオト(おぐま・なおと)
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