昭和、平成、そして現代の名物監督を紹介する本企画。第1回は勝負師にして、時代の先駆者である故・蔦文也監督(徳島・池田高)をクローズアップしたい。
高校野球の通史を振り返ってもこれ以上「濃い」男はいないと思わせるのは、やはり池田高を率いた蔦文也監督だろう。
黒々と日焼けした恰幅の良い蔦監督は、チームスタイルも相まって、「攻めダルマ」の愛称で知られている。
無類の酒好きで豪放磊落なイメージも強いが、そのイメージを利用し、ここぞの場面で機動力を使う勝負師でもあった。
1982年夏の甲子園では強打で並み居る強豪を撃破して優勝。金属バットの特性を生かすため、当時はタブー視すらされていたウエートトレーニングを導入するなど「やまびこ打線」を築き上げたことは有名だ。
ただ、ここに加えたいのは「数」の視点だ。当時の選手たちは口を揃えて「とにかく打撃練習が多かった」と証言している。
それまでの野球で「数」といえば、「ノックを受けた数」が重視されてきた。しかし、蔦監督は金属バットの打撃音を好んだ。「ボールを打った数」に価値を生んだこともパラダイムシフトのひとつだろう。
金属バット時代への移り変わりの象徴とされる「やまびこ打線」。パワー重視、食トレなどの「先駆者」である蔦監督だが、現代になってもパイオニアの項目が増えそうだ。
池田高の平日練習は15時から。授業終了の10分後にはフリーバッティングが始まっていたという。つまり、アップなしで打撃練習に入っていたのだ。常識では考えられないが、近年、部活動の活動時間短縮を背景に中学・高校で「アップ不要論」が流行の兆しを見せている。練習の中で体や肩を温めればいいという考え方だ。
サインプレーの練習が始まると「つまらん」と飲みに行ってしまったという逸話も残る蔦監督。打算があったかは定かではないが、「キャッチボールなんて時間の無駄」と言い放ったという。15時に始まって18時半に練習終了というのも当時は衝撃的な短さだっただろう。
豪快か、それとも豪快に見せかけた策士かは評価が分かれるところだが、打算がなくとも「ワシは好き!」の一点で、時代の先を行ってしまう。そんな「天然の先駆者」だったのではないだろうか。
文=落合初春(おちあい・もとはる)