プロ野球界に一種の革命をもたらした「JFK」。その「K」を担った久保田智之(元阪神)が引退を発表した。クローザーの「K」は2005年にリーグ優勝をもたらした。セットアッパーの「K」は1シーズンで90試合に登板するという偉業を成し遂げた。記録にも記憶にも残る、久保田の野球人生を振り返っていきたい。
久保田智之が最初に注目を集めたのは滑川高3年の夏だった。この年、夏の甲子園は80回記念大会で埼玉県は「東埼玉」、「西埼玉」と2つのブロックにわかれて、代表校を決めることになっていた。浦和学院高、春日部共栄高、埼玉栄高など強豪校が「東埼玉」に集中する状況の中、無名だった滑川高は「西埼玉」を勝ち進んでいった。準決勝では、のちに阪神でチームメイトとなる当時2年生の鳥谷敬がいた聖望学園高に勝ち、決勝で川越商高を1−0で下して、初の甲子園出場を決める。
甲子園では1回戦で境高に7−6と接戦を制し、2回戦の富山商高も5−3のスコアで勝利。この時、話題となったのがプロテクター、レガースを外し、野茂英雄(元ドジャースほか)を彷彿とさせるトルネード投法で投げ込む久保田だった。
地方大会から捕手を務める傍ら、エース・小柳聡の後を受け、2番手投手としてマウンドにも上がっていたが、やはり甲子園の注目度は違う。ただ、目立っただけではなく、2試合とも好リリーフを見せたことも大きかった。残念ながら、3回戦では久保康友(現DeNA)擁する関大一高に1−12と大差で敗れてしまった。しかし、無名の県立校の快進撃は「滑川旋風」と形容され、久保田自身も当時活躍していた絶対的守護神・佐々木主浩(元横浜ほか)にちなんで「滑川の大魔神」と呼ばれるほどだった。
高校卒業後、久保田は常磐大に進学。入学と同時に投手に専念する。徐々に力をつけていき、球速も150キロを超えるまでになった。3年春のリーグ戦では5勝を挙げ、関甲新大学リーグで最多勝利のタイトルを獲得。同期の小野寺力(元西武ほか)との2枚看板でプロのスカウトから注目を集める存在になっていった。全日本大学選手権や明治神宮大会、大学日本代表と大舞台でプレーすることは叶わなかったが、早稲田大の和田毅(現カブス)、亜細亜大の木佐貫洋(現日本ハム)らとともに「松坂世代」の一角としてドラフト候補に躍り出る。2002年秋のドラフト会議では阪神からドラフト5巡目で指名され、プロ野球選手としてスタートを切った。
久保田にとって飛躍の年となったのが2005年、開幕から抑えに固定され、ジェフ・ウィリアムス、藤川球児とともに強力な勝ちパターンのリリーフトリオを形成。3人の頭文字から「JFK」と名付けられた。
2007年、藤川の抑え転向により中継ぎへ配置転換となる。この年、久保田は毎試合のように投げ続け、1シーズンで90試合登板とNPB最多登板記録を更新。55ホールドポイントを挙げ、最優秀中継ぎ投手を受賞する。2008年も37ホールドポイントで2年連続受賞。阪神のリリーフ陣の大黒柱に君臨する。2010年にも71試合に登板と、「投げることが生きがい」と思えるほどマウンドに上がり続けた。しかし、その代償か、翌2011年以降は自慢のストレートに陰りが見えはじめ、登板機会が激減。今年2月には右ヒジを手術し再起を誓ったが、10月3日に現役引退を発表。12年間のプロ野球生活に幕を下ろした。