1965年の第1回ドラフトは、指名選手サイドからの不満が大きかったといわれている。というのも、前年までであれば好きな球団に、しかも高額な契約金で入団することができたのに、一転、球団は選べず、契約金の上限も1000万円に定められてしまったからだ。ドラフト制度の目的が「戦力の均衡化」と「契約金の抑制」であるため仕方がないことではあるのだが、「あと1年早かったら……」と思った選手は多かったに違いない。
だからなのか、第1回ドラフトでは指名拒否が相次いだ。有名なところでは谷沢健一(習志野高・阪急4位)、江本孟紀(高知商高・西鉄4位)、平松政次(岡山東商高・中日4位)といった面々がこの年、入団を拒否。全体でも指名選手132人に対して入団した選手はわずかに52名。入団率は39%という低さだった。
入団拒否をする理由としては、「指名順位の低さ(評価の低さ)」に納得がいかなかったため、というのも大きいだろう。第1回ドラフト以降では、1968年阪急1位指名の山田久志(新日鐵釜石・1967年西鉄11位指名)、1969年南海2位指名の門田博光(クラレ岡山・1968年阪急12位指名)が有名だ。
後に名球会入りした両選手は、入団年が早ければもっと数字を伸ばしていたのか、それとも高い指名順位になったからプロ入り後に結果を残しやすかったのか……これもまたドラフト制度の興味深い点であるといえよう。
近年、指名順位が低い、と入団を拒否した事例としては、現広島の福井優也の名が挙げられる。済美高時代にセンバツ優勝を経験した福井は、2005年の高校生ドラフトで巨人から4巡目指名を受けた。だが、迷った末に入団を拒否し、早稲田大への入学を目指すことに。ただ、決断が遅かったために推薦入試に間に合わず、一般受験をするももの合格できず、1年間浪人するというハプニングも生まれている。その後、早稲田大で結果を出し、2010年ドラフトで広島から1位指名を受けたのだから、ある意味で立派だ。
重複指名されるほどの人気選手にもかかわらず、希望球団ではないからと入団拒否した選手としては、投手では8球団が競合した小池秀郎(亜細亜大・1990年ドラフト)、野手では7球団が競合した福留孝介(PL学園高・1995年ドラフト)の2人が筆頭だ。
小池はロッテの1位指名を拒否して松下電器に入団。ところが社会人時代は故障に悩まされ、3年後の1992年ドラフトでは近鉄からの単独1位指名のみと評価を下げてしまった形となる。
一方の福留は、近鉄が交渉権を獲得するも入団を拒否。日本生命を経て、1998年ドラフトで中日を「逆指名」し、プロ入りを果たしている。ちなみに、1995年ドラフトで交渉権獲得の当たりクジを引いて「ヨッシャー」と雄たけびをあげたのが、当時近鉄の監督だった佐々木恭介。佐々木は後に中日の打撃コーチ・監督代行となり、時を経て福留と師弟関係になるという、不思議な縁で結ばれている。後年、2009年にカブスの福留のもとを訪ねた佐々木は、“臨時コーチ”としてカブスのユニホームを着るなど、師弟関係はその後も変わっていない。
ドラフト史上最多となる「3度のドラフト1位指名」を受けた男といえば江川卓(1973年阪急、1977年クラウンライター、1978年阪神)があまりにも有名だ。江川は結局、一度阪神に入団して巨人にトレードされたのだから、指名拒否回数は2回となる。
巨人では江川以降でも、1982年ドラフト2位の岡本光、2009年ドラフト1位の長野久義がそれぞれ2回の指名拒否(岡本:1978年南海3位、1981年南海5位/長野:2006年日本ハム4巡目、2008年千葉ロッテ2巡目)の末に巨人に入団している。
また、内海哲也は祖父・内海五十雄が元巨人の選手だった縁もあり、2000年ドラフトでオリックスから1位指名を受けながらも入団を拒否し東京ガスを経て、2003年に自由獲得枠で巨人に入団した。
この他にも、1989年にダイエーからの1位指名を拒否した元木大介、2011年に日本ハムからの1位指名を拒否した菅野智之は、それぞれ1年間浪人した末に、翌年巨人から1位指名を受けた選手たち。そこまでして入団したいチーム、それが読売ジャイアンツだった。
江川、長野らの「2回の指名拒否」を超える「4度指名拒否した男」が藤沢公也だ。藤沢は八幡浜高時代、1969年ドラフトでロッテから3位指名されるが、これを拒否して社会人野球の日鉱佐賀関に入る。その後も、1971年(ヤクルト11位指名)、1973年(近鉄4位指名)、1976年(日本ハム2位指名)のドラフト指名をことごとく拒否した末に、1977年ドラフトで中日から1位指名を受け、1978年オフに「5度目の正直」として遂にプロ入りを果たしている。この「ドラフト5回指名・4回入団拒否」は日本プロ野球史上最多である。
プロ入り1年目の1979年にはパームボールを武器に13勝を挙げて見事新人王を獲得。さすがは5回も指名を受けた男、と評価されたが、藤沢がプロで輝いたのはこの年のみ。2年目に1勝15敗と散々な結果を残すと、以降も勝ち星はなかなか増えず、結局1984年オフに引退。実働はわずか6年で27勝35敗という成績だった。彼もまた、入団年、入団チームが違ったらどんな数字を残していたのか気になる選手のひとりといえるだろう。
■ライター・プロフィール
オグマナオト/1977年生まれ、福島県出身。広告会社勤務の後、フリーライターに転身。「エキレビ!」では野球関連本やスポーツ漫画の書評などスポーツネタを中心に執筆中。『木田優夫のプロ野球選手迷鑑』(新紀元社)では構成を、『漫画・うんちくプロ野球』(メディアファクトリー新書)では監修とコラム執筆を担当している。ツイッター/@oguman1977