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あのエラーがなければ白河関を優勝旗は何度越えた?《夏の甲子園全決勝戦レビュー・第1回〜第7回大会》

 夏の甲子園の前身である「全国中等学校優勝野球大会」。その第1回が行われたのは1915年。今から100年前のことだ。『週刊野球太郎』の特集「高校野球100年物語」では無謀にも、過去に行われた夏の甲子園決勝戦を全試合、紹介することにした。もっとも象徴的な決勝戦を振り返ることで、高校野球の大きな流れはきっとつかめるはずだ。

 まずは第1回大会から7回大会までを紹介しよう。

1915年(大正4年)
――第1回大会

秋田中 |000|000|100|000|0|1
京都二中|000|000|010|000|1|2

まさかのダブルエラーで京都二中が優勝!


 記念すべき第1回大会は、甲子園球場ではなく大阪の豊中グラウンドで開催された。ちなみに、試合の前後に両チームの選手が本塁を挟んで、審判員を中心に整列して挨拶を行うことも、この第1回大会から始められた。

 決勝は0−0のまま7回に突入。秋田中は2死から先制点を奪うも、京都二中は8回、四球と失策で同点に追いつく。両者譲らず延長13回、京都二中は1死二塁のチャンスで、打球はハーフライナー。これを二塁手が落球し、慌てて一塁へ送球。ところが今度は、一塁手が送球を落球して、アウトが増えないどころか、走者はホームへ果敢に突っ込む。急いでホームに送球するも間に合わず、サヨナラで京都二中が優勝した。

1916年(大正5年)
――第2回大会

市岡中 |000|200|000|2
慶應普通|005|100|000|6

地元・市岡中の大応援団もむなしく……


 引き続き、豊中グラウンドで開催された第2回大会。決勝は大阪の名門・市岡中が出場するとあって、当時の新聞には「午前7時から観衆はグラウンドに押し寄せた」とある。

 しかし、市岡中は前日の試合でエース・松本終吉が負傷。部員は9人しかおらず、決勝は捕手の富永徳義を投手に、外野手の田中勝男を捕手に緊急コンバート。松本は左翼手として出場。急造バッテリーで試合に挑んだ。

 対する慶應義塾普通部はスマートな試合ぶりが目立ったという。大会で人気を博した米国人選手、ジョン・ダンの活躍などで、6−2で勝利して優勝。慶應義塾の華麗な試合運びに「慶應義塾が勝つのは当然だ。あれは商売人のやり方だから」と野次る者もいたという。

1917年(大正6年)
――第3回大会

愛知一中 |000|000|000|000|01|1
関西学院中|000|000|000|000|00|0

優勝校は2度も負けていた!?

 この大会から、開催地は鳴尾球場に移った。
 決勝に進んだ愛知一中は、初戦で長野師範に敗れていた。現在ならもちろん、これで終わり。しかし、当時は1回戦敗退チームから、他の2校に勝利したチームが復活者として、4強入りするという規定があったのだ。

 さらに愛知一中には幸運が訪れる。関西学院中との決勝戦は6回まで進み、愛知一中は敗色濃厚。ところが、そこで夕立が強くなりノーゲーム。再試合となった翌日の試合は延長14回にも及び、愛知一中の打者の当たりそこねの三塁ゴロが決勝点をよぶヒットとなって、優勝を飾ったという。

1918年(大正7年)
――第4回大会
米騒動の影響で大会中止


幻の大会となった第4回


 1918年8月14日に開幕予定だった第4回大会。前日の抽選会も行われ、いよいよ開幕日を待つばかり。ところが、米騒動の影響で、まさかの大会中止となった。

 米騒動とは、米の値段高騰を理由に、各地で起こった暴動のこと。富山県の魚津町を皮切りに、全国的に暴動が起こっていた。実際に大阪や神戸でも騒動が起こり、大会はあえなく中止となった。

1919年(大正8年)
――第5回大会

長野師範|000|002|002|4
神戸一中|020|000|05×|7

見世物ではない! 場内1周を断った優勝校


 大会前はそれほど評価が高くなかった神戸一中が優勝した。この神戸一中は、当時の高等学校進学率も全国1位となり、文字通り文武両道で栄冠を掴んだともてはやされた。

 しかし、この神戸一中は、閉会式後の場内1周を断ったという逸話がある。「母校のためにがんばっただけで、見世物ではないのだから、(行事である)場内一周は断る」というのが当時の米田信明主将のコメント。今では考えられないエピソードだ。

1920年(大正9年)
――第6回大会

慶應普通 |000|000|000|0
関西学院中|004|071|05×|17

記録づくめで関西学院中がリベンジ!

 第3回大会で、延長14回の末に愛知一中に敗れた関西学院中が、記録づくめの大差をつけて初優勝を飾った。

 好投手・沢昇を擁し、優勝候補に挙げられていた関西学院中。しかし、大会直前に沢が肋膜炎にかかるアクシデントが発生。2回戦から無理をして、マウンドに上がっていた。

 これで結束力が固まったのか、沢が少しでも楽に投げられるようにと、関西学院中ナインは猛打爆発。決勝戦の最大得点差試合として、今でも記録に残っている。

1921年(大正10年)
――第7回大会

京都一商|003|100|000 |4
和歌山中|105|013|24×|16

黄金時代到来! 和歌山中の猛打爆発


 第1回大会から出場を続けている和歌山中。毎年、優勝候補に挙げられるものの、栄冠を掴むことができなかった。

 しかし、この大会では打棒が爆発。1回戦は神戸一中を20−0で、2回戦は釜山商を21−1で、準決勝は豊国中を18−2で撃破。決勝も16−4と圧倒的な打撃力で勝利し、見事、全国制覇を成し遂げた。

 4試合で62安打、本塁打3本、三塁打5本、二塁打11本、チーム打率.358、総得点75点は、現在の甲子園大会では考えられない記録である。

★★★次回は第8回〜14回大会の決勝戦の模様をお伝えします。
(文=編集部)

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