この約10年、大阪の高校野球は大阪桐蔭と履正社の2強時代が続いている。一方の雄である履正社で1年夏からベンチ入りし、秋には二塁を守り2ケタの背番号ながら実質的にはレギュラーを獲得。「いい選手」であったことは間違いない。
大阪ベスト4で敗れた2年夏には3番を打ち、23打数8安打。数字も残しているのだからなおのことだ。スコアブックで振り返ると、僕はこの夏に履正社戦を2試合観戦。山田のヒットも好守も走塁でのスピードもしっかり見ていた……はずだった。しかし、不思議と印象は薄い。ポジションが二塁手から遊撃手に代わった秋もやはり見たし、山田はそれなりの活躍をしていた……はずだ。それでも、僕の中では「いい選手」の枠を出なかった。
年が明けると、雑誌『野球小僧』の誌面で安倍昌彦さんが山田を強く推すコメントを見た。「そこまで…?」と、正直、疑問を感じたものだった。悪いところはないが、僕の中では東京の大学へ進みそれなりに活躍する……。その時点でそれ以上のイメージが広がらなかった。一言で言うなら当時の山田は「印象の薄い選手」だったのだ。
山田の同期にPL学園の吉川大幾(現巨人)がいた。吉川は山田同様の3拍子を揃えた上、“ここ”という場面で打つイメージがあった。守りや走塁でのチョンボも含め、試合を見ていると何かと目の行く選手だった。さらに本人も早くから「プロ志望」を口にし、体中から負けん気やガッツも立ち上っており、この点でも山田とは対照的。僕だけでなく見る者の多くの目は自然と山田より吉川へと向いていた。
ところが、3年春になり、山田への僕の見方が劇的に変わった。大阪大会で山田はこれまで通り、打って、守って、走った……が、中身が変わったのだ。試合のポイントでの活躍が格段に増えた。そうなると、プレーする姿からも自信、貫録が伝わってくるようになったのだ。打率.435でチームの大阪大会優勝、近畿大会準優勝にも大きく貢献し、右肩上がりのまま迎えた夏。
2試合を戦い6打数4安打(2四球)。初戦の天理戦で重盗からのホームスチールでスピードと走塁センスを見せると、投手直撃の当たりでは打球の強さもアピール。敗れた聖光学院戦では左中間への一発も放ち、強肩を披露の守りも含め、もはや、どこからどう見てもドラフト上位候補の動きを見せ、最後の夏を締めくくった。