この悔しさを糧にプロで輝いた!「夏の地方大会決勝で涙をのんだ選手」名鑑/第27回
「Weeklyなんでも選手名鑑」は、これまで活躍してきた全てのプロ野球選手、アマチュア野球選手たちを、さまざまな切り口のテーマで分類し、テーマごとの名鑑をつくる企画です。
毎週、各種記録やプレースタイル、記憶に残る活躍や、驚くべく逸話……などなど、さまざまな“くくり”で選手をピックアップしていきます。第27回のテーマは「夏の地方大会決勝で涙をのんだ選手」名鑑です。
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夏の甲子園の出場権を懸けた地方大会が佳境です。最大の話題は、昨夏の甲子園を沸かせた左腕・松井裕樹擁する桐光学園(神奈川)が
準々決勝で敗れたことでしょうか。並外れた才能にも非情な結末を用意するのは高校野球の常。甲子園とは才能と努力、そして並外れた運の持ち主に開かれるものだと思わされる出来事でした。
とはいえ、甲子園に出場できなかったからといって、すべての選手の野球人生が終わるわけではありません。プロの世界には甲子園出場という栄光からは見放されても、その後チャンスをつかみ、甲子園のスターを上回る活躍をしてきた選手はたくさんいます。
今回は3年生時の夏の地方大会決勝で敗れる、という悔しい思いを経験しながら、それをバネにビッグネームへとのしあがっていった選手で名鑑をつくり、全国の敗れ去った球児たちへのエールとしてみたいと思います。
2012年 大谷翔平(花巻東)
わずか1年前の出来事という記憶の新しさを差し引いても、大谷の岩手大会決勝で敗退は記憶に残るものだった。
大谷は中学1、2年時にリトルシニア、シニアリーグで立て続けに全国大会に出場。花巻東に進んでも、早くから高い評価を受け1年秋にはチームのエースに。
2年生の夏はケガの影響で野手としての出場だったが、打線の中核を担い自身3度目の全国大会となる甲子園出場を決める。甲子園ではマウンドに上がり150キロを超えるストレートを投じ、その名は全国区に。
翌春のセンバツにも出場し大阪桐蔭のエース・藤浪晋太郎(現阪神)から本塁打を記録。甲子園での勝利はなかったが、大谷は持てる才能が一定の結果につながる、ある意味で恵まれた球歴を歩んだ。
しかし3年となった夏は、大谷に非情な結末が訪れる。準決勝でアマチュア野球最速となる160キロを記録し、全国のファンの視線を再び集めて臨んだ盛岡大付との決勝戦。大谷は2回に先制タイムリー許すと、さらに3回、相手の1、2番に出塁され、1死後に4番・二橋大地(現東日本国際大)を迎える。2球目、148キロのストレートがやや外寄り高めに浮く。二橋はこれを迷いなくフルスイング。打球は両翼91.5メートルの岩手県営野球場のレフトポールの突端付近に向かって飛んでいく。ボールは左にそれたようにも見えたが判定は
本塁打。3点を追加された花巻東は4点を追うことになった。
大谷は9安打を浴びながらも15奪三振と奮闘。しかし盛岡大付のエース・出口心海(現東北福祉大)をとらえることはできず、結局3-5で敗戦。期待を背負って迎えた夏、大谷の3度目の甲子園出場は夢と消えた。
甲子園の閉会式では日本高野連の奥島孝康会長が「とりわけ残念なのが、花巻東の大谷投手をこの甲子園で見ることができないことでありました」とその場にはいない大谷に言及する異例の事態を巻き起こした。大谷は敗れてなお、関係者の記憶に深く刻まれる特別な存在だった。
[大谷翔平・チャート解説]
【全国大会との縁:4.5】…中学時代に全国大会に2度出場、高校に入ってからも2度甲子園の土を踏んでいる。
【完全燃焼度:4】…………さらなる成長を感じさせていた大会だっただけに地方大会敗退はやはり残念。
【その後の活躍度:?】…なかなか印象的な活躍を見せているが本領発揮はこれからだ!
【全国大会との縁】…全国大会にどれだけ出場する機会を得ていたか?
【完全燃焼度】………決勝での敗戦時にどれだけ“やりきった感”があったか?
【その後の活躍度】…甲子園を逃した後、どれだけ大成したか?
を5段階評価した(以下同)。
1993年 松井和夫(稼頭央・PL学園)
清原和博と桑田真澄らの活躍で甲子園を席巻したPL学園。KKコンビの2年後輩の立浪和義らによる1987年の春夏連覇以降、4年にわたり甲子園から遠ざかった。1992年春のセンバツに5年ぶりの出場を果たすが、このチームでエースナンバーを背負っていたのが2年生の松井和夫だ。
松井は1年夏からベンチ入り。新チームで臨んだ秋季大会では既にエースとなっていたが、ケガもあり登板機会はほぼなかった。PL学園として久々の甲子園となったセンバツでチームは1、2回戦を勝ち抜き8強入り。ここまで登板のなかった松井に、準々決勝の東海大相模(神奈川)戦で先発の機会を与えられた。ケガは癒えておらず、痛み止めの注射を打ってマウンドへ登ったが、2失点し3回途中で降板。その後は両チーム得点が入らずPL学園は0-2で敗退した。
その後、チームは春季近畿大会を制するも甲子園とは縁がなく、松井もケガに悩まされる。中村順司監督の期待に応えられないまま1年が過ぎた。
しかし、3年生となった最後の夏はエースとして1回戦からマウンドに立つ。初戦を2安打完封。2回戦も7回を1点に抑えコールド勝ち。3回戦の桜宮戦は4失点したが13三振を奪い完投。4回戦の関西創価戦は7回途中まで被安打2、1点に抑えた。
松井はなおも投げ続ける。5回戦の初芝戦は16奪三振、箕面学園との準々決勝も13個の三振を奪う投球で完投。市岡との準決勝も2失点で9回を投げきり勝利する。準決勝の翌日という厳しい日程で行われた決勝の相手は、金城龍彦(現DeNA)や藤井彰人(現阪神)を擁する近大付。この日も先発した松井は4回まで相手打線を1安打に抑える。チームも金城から序盤に3点を奪い、試合はPL学園ペースで進んだ。
しかしここから松井は崩れ、残り5イニングで8安打を浴びる。5回に2失点、7回には1死一、三塁から三遊間を破られ同点に。次の打者にも粘られると、勝負球に選んだストレートを弾き返され、ボールは左中間を破る。二者が生還し3-5。松井は8回にも1点を失い、PL学園は3-6で敗れた。しかし15日間で8試合、67回1/3の熱投は、投げたくとも投げられなかった2年間の思いをぶつけた、観る者の心に残るものだった。
87年以来の夏の甲子園出場は、松井の熱投から2年後、1年生ながらスタメンに名を連ねていた福留孝介(現阪神)が3年生となった95年に達成する。その後PL学園は10年間で6度夏の甲子園に出場。松井の活躍は、PL学園復権の呼び水だった。
[松井和夫・チャート解説]
【全国大会との縁:3】…小学校、中学校で全国大会に出られず、甲子園への思いは強かった。しかし春のセンバツ1度の出場に留まる。
【完全燃焼度:4.5】……甲子園にはいけなかったが3年夏の8試合の熱投は、力を出し切った印象も。
【その後の活躍度:5】…その後プロに進むと野手として大成。メジャーリーガーとなり、WBC日本代表にも選出。
2000年 内海哲也(敦賀気比)
1986年に設立された敦賀気比は、90年代に入ると甲子園の常連だった福井商や福井(現福井工大福井)に肩を並べる野球強豪校になる。94、95、97、98年と福井大会を繰り返し制した。98年には春のセンバツにも出場した。
内海哲也は、福井の雄として名前を知られるようになった同校に98年に入学。2年夏には公式戦で登板機会をつかみ、秋に新チームができるとエースとなる。主軸・仲澤忠厚(元ソフトバンクほか)や捕手の李景一(元巨人)など同期のメンバーにも恵まれ、秋季大会を勝ち進み北信越大会で優勝。明治神宮大会でも丸亀(香川・四国代表)、国士舘(東京)を破る快進撃を見せる。決勝では四日市工(三重・東海代表)にサヨナラで敗れたが、春のセンバツ出場をほぼ確実なものとし、内海の名も全国に広く知られるようになった。
しかし、センバツ開幕直前の3月、チームの中心打者・仲澤が不祥事を起こし、敦賀気比は出場辞退を余儀なくされる。仲澤は退部。甲子園の優勝候補だった敦賀気比は一転、主軸打者を欠いて夏の県大会を迎える窮地に立たされた。
初戦の相手は優勝候補の一角を占める福井。先発した内海は初回に2点、2回に1点を失ったがその後なんとか粘り9回を投げ抜く。内海は自ら3安打を放ち反撃に貢献し、試合は5-5で延長に突入。敦賀気比は10回裏に得点を奪いサヨナラ勝ち。最初の壁を乗り越えた。
準々決勝は大差で勝ち、迎えた準決勝の若狭戦はまたも延長戦に。内海は13回を投げ被安打8、四死球4。17個の三振を奪う好投を見せ4-2で勝利した。
翌日の決勝は、山岸穣(元西武ほか)、天谷宗一郎(現広島)らのいる福井商と激突。内海は逆転タイムリーを放つなど打撃でも活躍。4回まで2-1とリード。しかし5回に走者を出すとストレートを打ち返され同点にされる。
その後、両者譲らずまたも延長戦に。10回表、内海は2死二塁のピンチを招くと、右中間を破る三塁打を打たれ2-3。その裏は9回からリリーフした福井商・山岸が敦賀気比打線を封じ、内海の甲子園への挑戦は終わった。
登板した4試合中3試合が延長戦だった内海の最後の夏。準決勝は16安打、四死球も7個得ながら、残塁が18という拙攻で試合を長引かせた。もし、勝負強い打者がいたら、内海への負荷を下げて決勝に臨めていれば、また違った結末が訪れたのではないか? ついそんな想像をしてしまう。
[内海哲也・チャート解説]
【全国大会との縁:3】…中学時代にジャイアンツカップ(全日本中学野球選手権大会)などに出場経験のある内海だが、手中に収めた甲子園出場がふいになる不運は印象的。
【完全燃焼度:3】………甲子園のスターになってもおかしくなかった内海が福井大会決勝で破れ去った事実、また県大会での投球が球威、制球ともに本調子ではなかったことを考えると…。
【その後の活躍度:5】…社会人を経て巨人入り。ついに甲子園のマウンドに立った内海は球界屈指の左腕に。
そのほかの夏の地方大会決勝で涙をのんだ選手たち
1934年 ヴィクトル・スタルヒン(旭川中/現旭川東)
1、2年生時、連続で北海道大会の決勝に進んだが、それぞれ北海中、札幌商に阻まれ甲子園出場はならず。2年秋に強引な引き抜きにあいプロ入りした。
1980年 秋山幸二(八代)
無名の進学校を投手として引っ張り、熊本大会の決勝に導く。しかし、後に西武で同僚となる伊東勤(現ロッテ監督)のいた熊本工に4-6で敗れた。
1982年 斎藤雅樹(市川口)
熊谷に1-3で敗れ敗退。斎藤と投げ合った熊谷のエース・江頭靖二は東大を目指すほどの秀才として知られた。
1990年 稲葉篤紀(中京/現中京大中京)
中学時代、同じバッティングセンターに通っていたという縁のあるイチロー(現ヤンキース)のいる愛工大名電に4-5で敗退。
1991年 三浦大輔(高田商)
前年全国制覇を成し遂げていた谷口功一(元巨人ほか)擁する天理に1-3で敗れる。
1993年 大家友和(京都成章)
倉義和(広島)とバッテリーを組み決勝進出。しかし京都西に2-3で敗れる。
1997年 井川慶(水戸商)
左腕の好投手として、平安の川口知哉(元オリックス)、鳥取城北の能見篤史(現阪神)らとともに注目される。腰痛を押して出場した決勝だったが、茨城東に1-4で敗れる。
1998年 木佐貫洋(川内)
春季大会では勝利していた、杉内俊哉(現巨人)擁する鹿児島実に1-3でリベンジされる。
2002年 坂口智隆(神戸国際大付)
1年からエースとして活躍。2年春のセンバツ出場を決め、同校初の甲子園に導く。3年になり外野としての出場が増えたがチームは決勝進出。しかし、同年春のセンバツ優勝校・報徳学園に0-5で完封負けした。
2003年 成瀬善久(横浜)
春のセンバツで準優勝し期待された最後の夏。しかし前日の準決勝で完投していたこもあり決勝の横浜商大戦では登板は初回のみ。2失点を喫しマウンドを後輩の涌井秀章(現西武)に譲った。2-7で敗れる。
2006年 増渕竜義(鷲宮)
私立校からの勧誘を断り公立校の鷲宮に入学し1年生からエースとなる。5回戦の
市浦和戦では15三振を奪いノーヒットノーラン達成。しかし決勝では0-5で浦和学院に敗れた。
2007年 中田翔(大阪桐蔭)
3年連続出場、全国制覇を目標に掲げた大阪桐蔭の投手として決勝進出。しかし金光大阪が先頭打者本塁打などで3点を先制。中田のバットもエースの植松優友(現ロッテ)に5打数0安打と封じられ、3-4で敗れた。
2008年 大田泰示(東海大相模)
3年の夏、北神奈川大会で
5本塁打を打ち注目を浴びたが、慶應義塾に延長13回6-9で敗れ甲子園には行けず。
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敗者の姿は、高校野球の象徴と言えるかもしれません。最後の瞬間まで勝ち続けられるのは1校のみ。その他のすべての出場校は敗者となるのが高校野球です。ただ、誰もが負ける高校野球でも甲子園出場を目の前にした敗戦はやはり別格でしょう。この特別な敗戦を味わった選手たちは、甲子園に出場した選手と同数いることになりますが、そこからプロで大成した選手を拾い出すと、優れた選手が数多くいるのがわかります。
“甲子園出場”というブランドが選手の評価を高めるイメージはありますが、スカウトの分析力が高まった昨今、甲子園に出たか、出なかったかという基準はあまり意識されていないようにも映ります。むしろ甲子園で8強、もしくは4強に入るところまでいって、ようやく選手の評価に色がついているような感じもします。
「負けることは悪いことではない。胸を張って帰ろう」
今年の東東京大会で、「10度目の決勝戦」に挑みながらも修徳に敗れた二松学舎大付の市原勝人監督は選手にそう伝えたといいます。負けを経験し、糧とした選手の中からNPBを支えるようなスターはいつの日か必ず現れることでしょう。彼らの成長をゆっくりと見守りたいと思います。
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