1976年8月21日、ある晩夏の昼下がり。
岡山県野球場から歩いて5分くらいのところにある県営住宅 ――2階建ての鉄筋の建物が5棟並び、どの家族も6畳2間に台所、といった手狭な間取りのなかで暮らしていた―― に我が家はあった。幼稚園の年少だった私は、何が映っているのかもよく理解せぬままにテレビを眺めていた。洗濯物を取り込む母親はテレビに映っているものに、さほど興味はなさそう。
クーラーが、贅沢品だった時代。開けはなした窓には、レースのカーテンがゆわーん、とゆらぎ、かといって、熱中症が話題になる昨今ほど不快ではない夏の風が、わずかに吹き込んでいた。小さな部屋はけだるくも心地よくまどろんでいた。「花はいらんかね〜」と無表情に、しかしリズミカルに口にしながら、行商のおばあさんが花を積んだリヤカーを引いては、家の前を通りすぎる。そんな“戦後の尻尾”の匂いがかすかに漂っていた頃のことだ。
NHKのアナウンサーが幾度となく「オービリン、オービリン」と、繰り返していた。なんとも、おうむ返ししたくなるフレーズに、心がそわそわしていた。オービリン!? テレビのなかには、乾いた土の黒さと芝生の緑がコントラスト鮮やかに広がり、白いユニフォームの高校生たちが白球の行方をめぐって右往左往している。その一挙手一投足にスタンドいっぱいの観客が声をあげている。オービリン、オービリン。不思議な熱にあてられていった。
やがて、やたらと汗っぽい喧噪は唐突に終わる。幕引きの合図を告げるような打球音を残して遠くまで飛んでゆくボール。ラッキーゾーンのフェンスにぶつかり、転倒する右翼手。ホームにヘッドスライディングする一塁ランナー。テレビの右端にいた球児がぐるりと画面を一周する間の、一瞬のざわめきとあっけなさ。テレビのなかの魔法がかった出来事は不思議なものだった。
第58回の夏の甲子園大会決勝。この日、西東京の桜美林が大阪のPL学園を延長11回、4対3のサヨナラゲームで下し、初出場初優勝を飾った。私が高校野球なるものを完全に認識して見るようになったのは3年後。1979年、小学2年の夏だった。“逆転のPL”と異名をとったPL学園が細い命綱をたぐり頂点を極めた裏で、地元・岡山東商がベスト4に快進撃した大会まで待つことになる。
しかし、オービリン、オービリン。私を初めてつかまえた“甲子園の魔物”は「オービリン」なる、あの言葉だった。それは、夏の魔物がいざなう呪文だった。「ピーエル」も口にしてみたいフレーズだが、どういうわけか「オービリン」ほど響かなかった。アナウンサーの判官贔屓が「オービリン」に叙情的な力を与えていたのか。何でだろう。
やがて私は小学4年からソフトボールを始めた。岡山ではリトルリーグよりも、軟式野球よりも、ソフトボールだった。ほとんどの小学校にスポーツ少年団に属するソフトボール部があり、野球に熱心な小学生はもっぱらソフトボールに励んだ。私がいたチームは強豪で5軍まであった。なお、私は1軍の補欠の座を目前にして、小学6年の4月、鬼監督から2軍のキャプテンを仰せつかることになる。2軍では一番上手い。大会の開会式ではチーム旗をもって入場する。楽しかった、が、恥ずかしかった。野球をしていた、ソフトボールだけど、グラブはMIZUNOの緑カップだけど、とは、今もおおっぴらには言えない。
その間も、夏がくると甲子園を見た。岡山の中央を南北に流れる旭川まで釣りに行っても、近所にできたショッピングモールに物見にでかけても、駄菓子屋で小遣いをはたいても、いつも試合の結末を気にしていた。合間を見つけては、甲子園中継にかぶりついた。夏の自由研究は毎年、高校野球のグラフ作り。秋と、冬と、春は『報知高校野球』を読み、まだ見ぬ夏の強豪に思いを馳せた。ヤバいやつらがいる、と。
ギタリストの真島昌利がザ・ブルーハーツ時代の1989年に発表した「夏が来て僕等」というフォークソングがある。ここで真島昌利は“夏が来て僕等 高校野球なんて見ないで 夏草にのびた 給水塔の影を見ていた”と歌う。夏の子どもたちの冒険心をセンチメンタルに、そして誇らしげに切り取った逸品だ。
私はこの歌のように、ある夏の日は、もっと大事なものがあるといった顔をして、高校野球ではなく川原で給水塔の影を見ていた。別の日には、いかんともしがたい諸事情 ――人生の蹉跌と歓び、日本社会の縮図、地域性等々―― が交錯する甲子園のグラウンドで、最後の夏に倒れる球児にとらわれていた。興奮と寒気。それは劇的な青春の物語であり、残酷な肉体劇でもあった。何故、あのエースは曲がったままのヒジでスローボールを投げ続けるのか。その麻薬のような中毒性にやられてしまったのだ。ギリギリの場所で鳴るどんづまりのパッションは、パンクミュージックの衝動、キラメキ、せつなさに似ている。
『夏が来て僕等』も夏の甲子園も、夏の少年に訪れる冒険と、その先にある“成長するってこと”を描いた残像として、時空をねじ曲げながら私のなかでピタッと同じところに座っている。『夏が来て僕等』と『栄冠は君に輝く』を聴くと、今でも心がジクジクとする。夏ってそういう季節だよな。そう、思える。
この連載を始めるにあたって、まずは高校野球との出合いを書かせてもらった。これは高校野球ファン誰しもが持つ、ありふれたエピソードにすぎない。
さて、本題の高校野球監督……。大人になるにつれ、いつしか私の視線は、夏がくる度に再会する監督なる男たちに向けられるようになった。
高校3年の夏に、青春の刹那を飛び散らせては去っていく球児たち。彼らが主人公たるべきなのだが、最後の夏を終えた球児の横で「来年こそ見ていろ!」と、闘志を燃やす男がいる。たったひとつの夢に崩れおちた若人の横で「明日から猛練習だ」と荒ぶる男がいる。一度きり、のはずの夏を敢然と繰り返す男がいる。それが高校野球監督だ。
この男たちは球児の最後を看取りながら、終わらない放課後に生きる者なのか? 人生の延長戦に生きる者なのか? 皆、人生の苦楽をシワに刻んだ顔をしている。戦国時代の豪族さながら、地元に城を構えてライバルとつばぜり合いし、彼我の栄枯盛衰を肌で感じ、全国制覇を掲げて甲子園を目指す。そんな強の者の顔つきである。いったい何なんだろう。
いってしまえば、野球部はいち部活動。監督はその顧問である。なのに何故、男たちは部活でしかない高校野球に命を削るのか。そこには業があるとしか思えない。教壇に立つ監督も多いが、スタンスは教員である前に監督である。どこかが、おかしい。情念と闘志が渦巻くトゥーマッチな生き様にハラハラする。
お約束の世間のものさしに風穴をあける奇人変人。規格外の男たちは皆、そのほとんどの夏ごとに、自分が育てた若人の“やり残したもの”を一身に引き取り、あきらめの悪い数奇な人生をタフに歩んできた。
高校野球は、おらが町に根をはった国民的スポーツだ。高校生には荷が重い、光と闇とが織りなす人間社会の縮図でもある。その中心に、監督という生々しい男たちがいる。毎夏、甲子園は、やめろと言われてもやめない男たちの執念と、一度きりの夏にかける球児の刹那を養分にして、大河のごときスペクタクルなドラマツルギーをみせてきたのだ。
阿波の攻めダルマ・蔦文也(池田)。職業監督・木内幸男(取手二、常総学院)。沖縄から本土を睨み続けた栽弘義(沖縄水産ほか)。笑顔で最後の夏を成仏させた尾藤公(箕島)、ヒールと呼ばれる前田三夫(帝京)や馬淵史郎(明徳義塾)、血気盛んな青年将校風情から神奈川高校野球の防人となった渡辺元智(横浜)……。この連載では次回から、名立たる監督たちの闘争心を支えたイズムを考えてみたい。
文=山本貴政(やまもと・たかまさ)
1972年3月2日生まれ。ヤマモトカウンシル代表。音楽、出版、サブカルチャー、野球関連の執筆・編集を手掛けている。また音楽レーベル「Coa Records」のA&Rとしても60タイトルほど制作。最近編集した書籍は『デザインの手本』(グラフィック社)、『洋楽日本盤のレコードデザイン』(グラフィック社)、『高校野球100年を読む』(ポプラ社)、『爆笑! 感動! スポーツの伝説超百科』(ポプラ社)など。編集・執筆した書籍・フリーペーパーは『Music Jacket Stories』(印刷学会出版部)、『Shibuya CLUB QUATTRO 25th Anniversary』(パルコ)など。