【この記事の読みどころ】
・三嶋一輝、辛島航など、高校・プロで先に活躍した同学年の投手は多い
・高校時代は「ダルビッシュメニュー」で体力強化
・高校時代からの負の連鎖を抜け出し、一気に開花!!
2008年、福岡の夏。
熱気が球場にあふれ、タレント球児が躍動した。
九州大会優勝の三嶋一輝(福岡工高〜法政大〜DeNAドラフト1位)が、夏に乗り込んできた。左腕では、精密機械の辛島航(飯塚高〜楽天ドラフト6位)、“制球よりも球速”の豪腕サウスポーコンビ、竹下真吾(八幡高〜九州共立大〜ヤマハ〜ヤクルトドラフト1位)と福地元春(自由ケ丘高〜九州共立大〜三菱日立パワーシステムズ横浜〜DeNAドラフト4位)がいた。右腕の長身素材型の笠原将生(福工大城東高〜巨人ドラフト5位)も注目された。そんな中、二保旭(九州国際大付高〜ソフトバンク育成ドラフト2位)は、笠原と同タイプだったが、線の細さが際立ち、当初の印象は薄かった。
なぜならば、本格的デビューは3年春と遅かったからだ。182センチ70キロは、高校3年間で作り上げた3年夏でのサイズ。それまでは、もっともっと華奢な体だった。スタミナをその痩身に備えていかねばならないため、当時、二保を指導した若生正廣監督(現埼玉栄高監督)の冬トレ方針は、ボールを扱わずに体力トレーニングをメインにしたものだった。二保の将来性や体格を見極めた上で、若生監督が東北高監督時に指導したダルビッシュ有(レンジャーズ)を育てた「ダルビッシュメニュー」と呼ばれる特別メニューを二保にも課した。10キロのロードワークと腹筋・背筋1000回の日々に耐えた二保の才能は、3年春・北九州市長杯でようやく開花した。
2008年5月4日の準決勝・小倉西高戦で、8回からリリーフとしてマウンドに立つと、いきなり143キロを計測。タテスラとチェンジアップを駆使して、2回1安打3奪三振。翌日の決勝・自由ケ丘高戦でも好リリーフを演じ、優勝に導いた。この投球により、一気にドラフト戦線に浮上した。長身からのしなやかな腕の振りの残像が、いまだに脳裏に浮かぶ。
最後の夏、九州国際大付高は三嶋擁する福岡工高と並ぶ優勝候補として双璧だった。4番左翼手・榎本葵(当時1年、楽天ドラフト4位)、6番捕手・河野元貴(当時2年、巨人育成ドラフト2位)を配する強力打線だった。心強い味方を背に二保は、「大切に育てる」方針もあって、初戦、3戦目と登板回避。2戦目にリリーフ登板し、3回2安打と上々の結果だった。
5回戦・福岡工高戦は、三嶋との投げ合いとなった。腰痛の三嶋も本調子でなく、6回に2−2に追いつかれて、途中降板。一方、二保は7回1/3を2失点でまとめて、あとはリリーフに託した。延長14回にまで及んだ死闘に終止符を打ったのは九州国際大付高のルーキー・榎本の特大サヨナラ本塁打だった。この勝利で、チームも二保も勢いづくかと思ったが、準々決勝・飯塚高戦は、辛島の術中にはまり、打線は2安打で、三塁も踏めずに完全沈黙。二保は熱中症により、6回で途中降板となった。試合は9回裏に失点し、0−1のサヨナラ負けとなってしまった。
もし、二保が熱中症にならなかったら……
もし、結果として甲子園に進んだ飯塚高に勝っていたら……
不運だったと嘆いても、「たられば」を言っても仕方がないが、夏にピークを迎える調整が二保にできていたら、また違った結果になっていたのかもしれない。「大切に育てる」と「夏にピークを迎える調整」の両立は難しい。
右肩上がりの成長度と、将来性を考えると、ドラフト本指名があると予想していたものの、二保は地元・ソフトバンクに育成ドラフト2位で指名された。夏の敗戦から続く「負の連鎖」に入っていってしまった。育成選手でプロ入りしたものの、なかなか結果が出ず、持ち場も2軍から3軍へ。「勝負の年」と意気込んだ2012年、一気に上昇気流に乗り、支配下登録、1軍デビューも果たしたが、体重減(入団当初から4キロ減の66キロ)が気になった。