横浜に在籍していた2004年に打率.305、40本塁打、100打点というキャリアハイを記録した多村仁志。「40本台の本塁打」「3割40本塁打100打点」がいずれも球団初の記録だったこともあり、意気揚々と契約更改の交渉の席へ。
多村は3700万円から一気に1億円の大台を目論んだが、球団が提示したのは800万円足りない9200万円だった。
そこで保留した多村が、待ち構えた報道陣の前で口にしたのがこのセリフ。
「大台にいかない理由がない。出さないと球団が恥ずかしいと思う」
3年連続最下位という散々なチーム状況だったこともあり、大台は与えにくかったのかもしれない。しかし、同年にメジャーから復帰した佐々木主浩に2年契約の6億5000万円という破格の年俸を払ったのなら、もう800万くらい出してあげたら……と思うのは甘いだろうか。
西武の黄金時代を支えた大エース・東尾修。1986年オフの契約更改で投手として初の1億円プレーヤーになったのだが、そこにはこんな裏話があった。
年俸9100万円で1986年シーズンを戦った東尾は、シーズンこそ12勝11敗という成績だったが、史上初の第8戦までもつれた広島との日本シリーズでは3試合に登板するなど奮闘を見せた。
プラス査定を勝ち取ったと思ったなかで迎えた契約更改。提示された年俸は……、大台にはわずかに届かない額だった(その額は100万、200万と諸説ある)。1億円プレーヤーになりたかった東尾は球団にこんな提案をする。
「足りない分は自分で出すから、1億円ということにしてほしい」
この言葉に胸を打たれたのか、巧みな交渉術に乗せられたのか球団は年俸アップを承認。こうして希望額に到達した東尾は投手初の1億円プレーヤーという金字塔を打ち立てた。
なお、プロ野球選手で初めて1億円に達したのは落合博満。2年連続三冠王に輝いた1986年のオフ、ロッテから中日へ移籍した際に1億3000万円で契約となった。
最後に大幅アップにびっくりした若手投手の珍コメントを紹介したい。
攝津正、ファルケンボーグ、馬原孝浩、甲藤啓介で形成された2010年のソフトバンクの勝利の方程式「SBM48」。
その「48」として65試合に登板し、チームのリーグ優勝に貢献した背番号48の甲藤は、オフの契約更改で年俸900万円から3600万円アップの4500万円の破格の提示を受ける。
しかし、甲藤はなぜかハンコを押さず保留。理由をこう語った。
「2度見するほどびっくりする金額だったので、もう一度考えさせてほしいということです」
予想を遥かに超える400パーセントの増額に戸惑ったようだが、球団としては前年、攝津に3800万円増の5000万円を提示しており、甲藤にも「当然の評価」をしたまでなのだろう。
球団の豊富な財力に1人踊らされた格好になってしまった甲藤。さすがに「上がりすぎて一旦保留」する選手は、今後も現れないのではないだろうか。
毎年のように何らかの事件が起こる契約更改。大抵は多村のように「怒り」や「失望」といった負の感情から起きることが多い。
ただ、東尾や甲藤のようにファンを笑顔にしてくれる契約更改もあるのが、また面白いところ。人柄が顔をのぞかせるわけだ。
新たな契約更改時の風物詩的選手の登場を密かに待ちながら、契約更改を巡るドラマを見守りたい。
文=森田真悟(もりた・しんご)