現役引退を決意した2010年のシーズン途中、矢野燿大は「チームに迷惑をかける」と、自らファーム行きを直訴した。
常にチームのこと、投手のこと、そしてファンのことを気遣った現役生活20年間を全う。5年という充電期間を経て、再び阪神変革のために作戦&バッテリーコーチとして矢野が立ち上がった。
大学受験に失敗し、野球を続けていくことすら諦めかけた高校時代。
ドラフト2位で中日ドラゴンズに入団するも、「ボールを芯で捕れない」キャッチングの力不足で、プロの壁に突き当たり、1軍2軍を行き来する「エレベーター選手」として過ごした中日時代。
矢野の野球人生は、挫折と苦悩の連続であった。
東北福祉大の恩師、故・伊藤義博先生にかけてもらった「捕手ならば、もっと投手のことを思いやれ!」という言葉を糧に、矢野は投手主導型のリードを携え頭角を現し始める。
プロ6年目のシーズン、矢野は東京ドームでの巨人戦で野口茂樹(当時中日)のノーヒットノーランを巧みなリードでアシストする。
そして、7年目のオフ、阪神に移籍が決まり「中日を見返してやる!」と意気込んだ翌シーズン、川尻哲郎のノーヒットノーランを再びアシスト。星野中日相手に有言実行を成し遂げた。
その後、いみじくも中日時代に自分を見放した星野仙一が阪神の監督に就任、阪神の中心選手として扇の要となり、勝てる捕手として“正捕手”から“名捕手”への階段を上り始める。
2010年9月30日甲子園。横浜(現DeNA)相手に2点リードで迎えた9回表、「ピッチャー・藤川」の場内アナウンスとともに流れたのは、「Every Little Thing」ではなく、矢野のテーマソング『ヒーロー』。場内から一斉に「矢野コール」が沸き起こった。
この演出に感極まった藤川球児は、目に大粒の涙をためながら投じるも、四球を連発。村田修一に3ラン本塁打を浴びて試合に敗れ、優勝戦線から脱落する。
実は9回2死、もしくは併殺に備えて1死一塁から、矢野が藤川球児と最後のバッテリーを組む予定だったという。
結果的に、チームの勝利を優先した試合となり、何よりもチームを大切にした矢野らしさが現れた引退試合であった。
その矢野が再び縦縞のユニフォームを着る。引退試合で見られなかった勇姿を、ファンは今も待ち望んでいる。
文=まろ麻呂
企業コンサルタントに携わった経験を活かし、子供のころから愛してやまない野球を、鋭い視点と深い洞察力で見つめる。「野球をよりわかりやすく、より面白く観るには!」をモットーに、日々書き綴っている。