昨年の高橋光成同様に「1位指名公表」で西武が獲得したのは明治神宮大会ノーヒットノーランで鮮烈な全国デビューを飾った豪腕。順調に成長し続けた男は今春、右肩を故障も、その評価は下がることはなかった。
第1回、「不安の末の1位指名」
第2回、「連投でつかんだもの」
多和田の22年の人生で、大きな選択が中部商への進学だ。
「中学のときはもちろん、無名だったので、適当な高校に行って、高校で野球は終わろうと思っていました」
それが、当時の中部商・宮里豊コーチから誘われて進学を決意する。高校では「つきっきりで指導してくれた」という宮里コーチのお陰でカーブを習得した。
3年夏は沖縄大会決勝まで進んだ。3回戦の浦添商戦では延長13回、207球を投げぬくと、翌日の準々決勝・豊見城戦は延長12回を完投した。準決勝では、前年に春夏連覇を成し遂げた興南に7対6で勝利。これも投げきった。糸満との決勝も先発したが、スクイズと失策で2点を失った。
「1対2の1アウト満塁で、自分がバッターで終わりました。打ったら甲子園だったんですけど。サードゴロ、ゲッツーです」
聖地には届かなかった苦い思い出かと思いきや、すでに“ネタ”のようだ。
「沖縄に帰ったら、いつも誰のせいで負けたのかという話しになります。3人くらいいて。自分か、エラーしたやつか、あと三塁コーチャーのやつか。自分の前のバッターがレフト前に打ったとき、レフトがエラーしたんですけど、ランナーを止めたので」
甲子園まであと一歩の夏を経て、プロ志望届を提出した。しかし、指名はなかった。
「それはそうだろうなと思いました。(指名が)なくても仕方ないなって。プロの世界に行くには、すべてにおいて足りなかったと思います。指名されなくても当然かなと。なので、ショックもそんなにありませんでした」
成長を近い、南国・沖縄から雪国・岩手の富士大に進学した。
1年秋の鮮烈な全国デビューから投手として成長を続けてきた。最も、多和田を成長させた要因は、1年中、土の上で技術練習ができる沖縄では少なかったランニングメニューだろう。「下半身が強くなり、ブレなくなった」と成果を実感。制球力が高まったと感じている。それでも、「大学レベルのコントロール」と言い切る。
「大学生のなかではコントロールに自信はあります。でも、プロに行ったらまだまだだと思います。大学生のストライクゾーンの広さのままではやっていけないんじゃないかと。ボール1個、2個の出し入れが、プロの世界では大切になると思います」
プロでの目標を「毎年10勝」と定めた。「1位で取ってもらったので、それくらいは活躍しないとダメだと思う」という思いから出た目標だ。
「ここぞ、で投げて勝つのがエースだと思っています。だから、どんなに調子が悪くても、勝つということを目標にしてきました。1、2年の頃はコロッと負けることがあったのですが、3年生あたりから、そういうピッチングが少しずつできてきたと思います」
3年春のリーグ戦で、多和田は力を抜いて投げる感覚をつかんだと前述した。それは黒星を喫した翌日に連投したことでつかんだ感覚だが、あの敗戦以降、多和田はリーグ戦で負けなかった。青森大、八戸学院大をはじめ、力が拮抗している北東北大学リーグで4年春まで13連勝したのだ。
「ケガが治れば、プロでやっていける自信はあります」
嫌というほど、走ってきた。場数も多く踏んできた。4年前、指名漏れに終わったときに「仕方ない」と諦めた姿はどこにもない。今は「成長できた場所」と感謝する、岩手・花巻で得た自信でみなぎっている。
(※本稿は2015年11月発売『野球太郎No.017 2015ドラフト総決算&2016大展望号』に掲載された「32選手の野球人生ドキュメント 野球太郎ストーリーズ」から、ライター・高橋昌江氏が執筆した記事をリライト、転載したものです。)