169センチ。
小さな体で、プロ野球選手として生き抜いてきた。そこには平野恵一(元オリックスほか)にしか出来ない数々のプレーがあった。
平野は東海大時代、ショートとして活躍し、特に打球への反応が天才的だったことから“平成の牛若丸”と呼ばれた。しかし、世間の期待に反して、平野家ではプロ入りに関し、家族会議を開くほど慎重になっていた。
母親からは、「小さい体で頑張っている姿を見せるだけでも十分」と言われ、背中を押されるものの、成功するのが難しいと思われていることが、とても悔しかったという。
そんな平野には、大学時代から多くの「ちびっ子ファン」がいた。平野は「子どもたちのためにも!」と意を決して、プロ入りを決断する。
2001年ドラフト、自由獲得枠で、オリックス・ブルーウェーブ(現オリックス・バファローズ)に入団した平野。打っては1、2番のチャンスメーカーとして、守ってはセカンド以外にも、センターの守備も華麗にこなす。何事にも一生懸命なプレーぶりは、仰木彬監督(当時)から「チームの戦略上、貴重な存在」と評価された。
そんな全力プレーが仇となってしまったアクシデントが平野を襲う。2006年5月のロッテ戦で、ファウルボールを深追いしてフェンスに頭から激突。重傷を負い、シーズン後半を棒に振ってしまった。
翌2007年オフには、阪神とオリックスの間で、2対2の交換トレードが成立。阪神の岡田彰布監督(当時)は、濱中治の交換には平野しか応じないとフロントに直訴している。仰木監督同様、岡田監督もチーム戦略上、平野の必要性を感じていたのだ。
前述したロッテ戦で負った大ケガから見事、復活した平野は、2008年にはカムバック賞を受賞。移籍先の阪神では、2番・セカンドとして攻守に活躍する。
2010年7月のヤクルト戦では、一塁にヘッドスライディングした際、笠原塁審にアウトと宣告され、グラウンドにヘルメットを叩き付けたことが、審判への挑発行為と受け取られ、退場処分を受けてしまった。
翌日、塁審についていた笠原審判と平野は話し、笠原から「子どもが見ている前でああいう行為はいけない」と諭され、プロ野球選手に憧れる子どもたちに悪影響を与えた、と深く反省。ただし、平野が審判に対して挑発するはずもなく、悔しさで抑え切れない感情が取らせた行動だったのは間違いない。
結局、このシーズンは打率.350と好成績を残し、ベストナイン、ゴールデングラブ賞を獲得。翌2011年には2年連続で、W受賞を果たした。
平野はその後、2012年にはFA権を行使してオリックスへ移籍。そして今季、現役生活にピリオドを打った。
時には感情を剝き出しにし、ガッツ溢れるプレーを魅せてくれた平野。前述したロッテ戦で大ケガを負ったにも関わらず、それでも全力プレーを貫いた姿は、引退した後もファンの胸には刻まれるであろう。
来季からは、阪神の2軍守備走塁コーチとして、そのガッツを若手に注入し、金本知憲監督をファームからバックアップする。
文=まろ麻呂
企業コンサルタントに携わった経験を活かし、子どものころから愛してやまない野球を、鋭い視点と深い洞察力で見つめる。「野球をよりわかりやすく、より面白く観るには!」をモットーに、日々書き綴っている。