4月20日 、左ヒジ痛により床田寛樹(広島)の出場登録が抹消された。新人ながら、開幕ローテーションの座をつかみ、プロ2戦目の4月12日の巨人戦で初勝利を挙げるなど、これからの飛躍が期待されたなかでの離脱だった。
広島には、ここ15年近く日本人左腕が大成していないという負の歴史がある。昨シーズンは左腕エース候補の戸田隆矢が、初完封勝利の直後に負傷離脱。左腕がなかなか育たない状態には、やきもきさせられる。
「広島の左腕は呪われている」
こうささやかれるほど左腕不足は深刻だ。
それだけに、開幕ローテーション入りした床田への期待は大きかった。積年の夢だった左腕エースの誕生を夢見ていたファンもショックを隠せない。
広島は左腕投手を育てられないのか? 広島の日本人左腕の歴史を辿ってみたい。
1980年代、球界切っての投手王国を誇り、黄金期を迎えていた広島。そこには2人の偉大な左腕エースがいた。
大野豊と川口和久。この2人こそ広島球団史に名を残す稀代の名左腕だ。
大野は150キロを超えるストレートと多彩な変化球を武器に、先発と抑えの両方をこなし、通算148勝138セーブという驚異的な数字を残した球界のレジェンドだ。
また、1988年には沢村賞を受賞。43歳まで現役を続けた強靭な体を持ち、引退試合では146キロを記録。この投球はいまだに語り草となっている。左右の違いを超えて、広島史上最強投手に推す声も多い。
川口は140キロ台後半のストレートに、カーブ、スライダーを織り交ぜた投球スタイルで3度の奪三振王を獲得。プロ18年で歴代17位の209奪三振を記録した。1試合あたりの平均奪三振率7.71は歴代4位だ。
通算勝利数は136勝。7度のシーズン2ケタ勝利を記録するなど、長らく広島先発陣の柱として活躍した。
2人が揃い踏みした時代がピークだった。1994年に川口はFAで巨人に移籍。1998年に大野が引退すると、広島の日本人左腕に陽の目が当たることはめっきりと減った。
2001年から2003年の3年間は高橋建が規定投球回を超える活躍を見せるも、以降14年間、日本人左腕で規定投球回数を超えた投手は現れていない。
「左腕不毛」と言われる広島だが、ドラフトでは左腕投手を度々獲得している。そのなかでも際立った印象を残しているのが1999年に3球団競合の末ドラフト1位で獲得した河内貴哉だ。
大型左腕・河内への期待は大きく、それは前年に引退した大野豊の背番号24を受け継いだことからも見てとれる。
入団5年目の2004年に先発ローテーション入りすると自己最多の8勝を挙げ、オールスター出場を果たすなどブレイク。ついに左腕エース誕生と目されたのだが……。
翌2005には、フォーム改造などの試行錯誤を繰り返すうちに不調に陥る。2008年には肩を負傷、その後、育成選手に降格してしまう。「広島の左腕は呪われている」と囁かれだしたのはこの頃からだ。
その後、不屈の闘志で復活し、中継ぎとして活躍したが、左腕エースとなることなく2015年に引退。現在は球団職員としてチームの屋台骨を支えている。
ほかにも、2007年のドラフト1位で篠田純平を獲得。2010年には6勝を挙げるなど、ローテーション投手として活躍するも、その後は伸び悩み2015年に引退。プロ通算7年で20勝と、左腕エースと呼ばれることはなかった。現在は、河内同様、球団職員となった。
ドラ1左腕の2人が同時に引退するといった数奇な巡り合わせもあり、「呪われた左腕伝説」は加速していくのであった。
近年はすっかり「左腕投手不毛の球団」が板についてきた感はあるが、若手を見渡すと逸材が揃っている。
特に注目したいのは、昨シーズンに1軍デビューを飾った3年目の塹江敦哉だ。150キロを超える剛球を誇り、本格派左腕として期待する向きが多い。また、2年目の高橋樹也は4月30日のDeNA戦で1軍デビューを飾った。高校ビッグ4に数えられたルーキーの高橋昂也も有望株だ。
上記の3投手はいずれも高卒入団の投手。広島は高卒左腕の規定投球回達成者は1966年の大羽進以来、51年も出ていない。この不名誉な記録を彼らが絶ってくれると信じたい。
真の黄金期、そして投手王国を構築するには左腕投手の台頭は必要不可欠。若手左腕たちが、「左腕不毛の地」に終止符を打ってくれる日を待ちわびている。
文=井上智博(いのうえ・ともひろ)