雑誌『野球太郎』の連載でも御馴染み「伝説のプロ野球選手に会いに行く」の「週刊版」。現在、文庫版“伝プロ”も絶賛発売中!
「ボク、もちろんキューバ応援してたよ。これははっきり言うとく。でも、どっちもよく決勝に残って、それがいちばんうれしかったわ」
日本とキューバが戦った2006年のWBC決勝。祖国の勝利を祈っていたというその野球人は、1955年に来日、阪急(現オリックス)の助っ人として活躍したロベルト・バルボンさん。WBCから3カ月後、野球雑誌の取材で会いに行きました。
バルボンさんは入団1年目から長く1番を打った俊足の二塁手。ベストナインに選ばれた58年から3年連続盗塁王を獲得し、オールスターにも2回出場しています。55年にはリーグ最多安打を記録して、三塁打王、得点王になること各2回。
阪急で10年、近鉄で1年、合計11年間も日本のプロ野球でプレーして通算1123安打、166二塁打、52三塁打、33本塁打、308盗塁という成績。しかし僕自身、現役時代の数字を知ったのは取材することになってからで、大変失礼ながら、選手としての特徴も詳しくわからずにいました。
それでも、「バルボン」という名前は、頭にすり込まれていたも同然。なぜなら、現役引退後にコーチを経て阪急の通訳になったバルボンさんがヒーローインタビューのとき、外国人選手のコメントを伝えるシーンをテレビでよく見たからです。まして流暢な関西弁だったので、強烈に印象に残りました。
当然ながら、2006年にインタビューをしたときも、やはり関西弁。当時、バルボンさんは73歳にしてオリックス球団のファンサービスグループに所属し、<オリックス・バファローズ少年野球教室校長>を務めていました(現在は顧問)。
「もう13年ぐらい、子どもに野球の基本、教えてる。だいたい毎週、土日やな。それでボク、元気や。若さ残ってるわな。いつもみんなと一緒に走ってるし。だから、子どものおかげや。もう幸せやホンマに」
イントネーションも何もかも、日本人と変わりありません。褐色の肌は「外国人」と見えても、話をすれば「関西人」そのもので、ずっと明るい表情で笑いが絶えない上に、こちらを自然と笑わせて、笑いの渦のようなものに巻き込んでいる。そうなるのも、話の落とし所が常に絶妙だからです。
バルボンさんがそこまで日本語堪能なのは、現役引退後もずっと日本に滞在し続け、初来日から50年以上の歳月が経っていたこともあります。そこには、キューバ出身の方に特有の事情がありました。
1958年のオフに帰国したバルボンさんが再び日本へと向かった直後、59年1月に起きたキューバ革命。この政変によってキューバとアメリカの国交が断絶した結果、帰りたくても帰れなくなってしまったのです。
「革命あった年もね、帰る予定やったよ。帰りたかったよ、ホンマに。でも、飛行機、飛ばへんかった。だいたい3〜4年ぐらいやな。飛ばへんかったら、帰られへんちゃうか? はっはっは」
日本の情報をほとんど何も知らずに2月に来日し、当初は寒さに苦労した話など、辛かった思い出も笑顔を絶やさずに話してくれたバルボンさん。おそらくは最も辛かった革命の話も笑い混じりでしたが、このとき、帰国するための手段がなくなった事実だけが繰り返されました。
僕はハッとして、事実だけを繰り返しているということは、それ以上もそれ以下もない、もう話すことはない、と言われているのと同じだと気づきました。にも関わらず笑い混じりだったのは、まさに、文字通りの苦笑だったのだと思います。