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由規復活伝説・高校編。挫折やケガから何度も這い上がってきた男



 あいつが、やっと戻ってくる。今季から育成選手になり、背番号「121」で再出発したヤクルト・由規。イースタンでの好投が決め手となり、支配下登録に昇格することが決定的。早ければ7月8日からの中日3連戦(神宮)で1軍に復帰し、先発登板する見込みだという。

 高校時代には、いまだ破られていない甲子園での最速記録155キロをマーク。プロに入ってからも2010年に当時の日本人最速161キロを計測するなど、常に強烈な印象を残してきた快速右腕。2013年の右肩手術を経て、1軍で再び、その勇姿を見ることができる日が近づいたわけだ。

 手術から復活を果たす選手は年々増えているとはいえ、肩の手術から完全復活を果たした事例は非常に少ない。それでも、由規にはつい期待したくなる自分がいる。これまでにも何度となく窮地に立ちながら、それらを克服してすばらしい投球を見せてくれた過去があるからだ。

 本稿ではそんな「復活の由規」伝説を、高校時代のエピソードから振り返ってみたい。


「投手はムリだ」と感じた入学前


 中学1年時にはリトルリーグ日本代表として世界大会準優勝。自身もノーヒットノーランを達成するなど、将来を大きく期待された投手だった由規。高校は地元の強豪校、仙台育英に進学した。

 ところが、入学前のはじめての合同練習で早速、挫折を経験する。あまりのレベルの高さに、ひとりだけ練習についていけなかったからだ。

 これではとても投手はムリ。野手になろう……。そう決意した1年生の由規。実際、1年夏の大会ではサードの控えとしてベンチ入りした。

 そんな由規に転機が訪れたのが1年の秋。控え投手として練習を始めた矢先、東北高との試合前にエースがケガをしてしまい、急遽、由規が先発登板することになったのだ。そして、この試合で由規は140キロ台のストレートを連発。完封勝利をおさめ、以降、投手一本で高校生活を過ごすことになった。


まさかの大敗で学んだエースの責任


 背番号「1」をつけるようになった2年春。2006年の春季東北大会決勝戦に登板した由規は5回までになんと13失点。チームも4対24という信じられない大敗をしてしまう。

 監督からは「そんな軽い気持ちで1番背負ってるんじゃないんだよ」と怒鳴られた由規。一方、チームメイトからは「どんなに打たれてもいいから、お前の好きな球を投げろ」と励まされた。

 この苦い経験でエースの責任を学んだ由規。その成果が2カ月後、甲子園出場をかけた宮城大会決勝、ライバル・東北高との死闘で生きることになる。投手戦となったこの試合、由規は延長15回、226球を投げて0対0。勝敗の行方は、宮城大会としては初の決勝引き分け再試合に持ち込まれた。

 翌日、決勝再試合でも由規は完投し、6対2で勝利。2日間24イニングをひとりで投げぬき、甲子園の切符を獲得した。背番号「1」の責任感が、最後までマウンドに立つ原動力となったのだ。


骨折をしてもマウンドへ


 どんな状況でもマウンドに立ち続ける。そんなエースの責任感が発揮された試合はほかにもある。2007年のセンバツだ。

 由規はこの大会の一週間前、練習試合でデッドボールが当たり、左手を骨折するという不運に見舞われる。だが、どんな状況でもマウンドに立ち、試合を作ってこそエース。痛みをこらえてマウンドに立ち、ストレートは最速150キロを記録。試合には1点差で敗れたものの14個の三振を奪い、評価をまた高めることとなった。そしてこの150キロこそ、夏の甲子園での「155キロ」の序章となったのだ。


 高校時代の熱投伝説から9年。26歳になった由規は、イースタンの試合で150キロを超える球を投げ込んでいるという。だからといって、160キロ再び……といった期待をするのは酷だ。

 「由規復活」。その言葉の意味は、球速ではなく、チームに勝利をもたらす、エースとしての姿のはず。甲子園を唸らせたあの日のように、再び野球ファンを唸らせてくれることを信じて、その復活の日を待ちたい。


文=オグマナオト(おぐま・なおと)

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