中学1年時にはリトルリーグ日本代表として世界大会準優勝。自身もノーヒットノーランを達成するなど、将来を大きく期待された投手だった由規。高校は地元の強豪校、仙台育英に進学した。
ところが、入学前のはじめての合同練習で早速、挫折を経験する。あまりのレベルの高さに、ひとりだけ練習についていけなかったからだ。
これではとても投手はムリ。野手になろう……。そう決意した1年生の由規。実際、1年夏の大会ではサードの控えとしてベンチ入りした。
そんな由規に転機が訪れたのが1年の秋。控え投手として練習を始めた矢先、東北高との試合前にエースがケガをしてしまい、急遽、由規が先発登板することになったのだ。そして、この試合で由規は140キロ台のストレートを連発。完封勝利をおさめ、以降、投手一本で高校生活を過ごすことになった。
背番号「1」をつけるようになった2年春。2006年の春季東北大会決勝戦に登板した由規は5回までになんと13失点。チームも4対24という信じられない大敗をしてしまう。
監督からは「そんな軽い気持ちで1番背負ってるんじゃないんだよ」と怒鳴られた由規。一方、チームメイトからは「どんなに打たれてもいいから、お前の好きな球を投げろ」と励まされた。
この苦い経験でエースの責任を学んだ由規。その成果が2カ月後、甲子園出場をかけた宮城大会決勝、ライバル・東北高との死闘で生きることになる。投手戦となったこの試合、由規は延長15回、226球を投げて0対0。勝敗の行方は、宮城大会としては初の決勝引き分け再試合に持ち込まれた。
翌日、決勝再試合でも由規は完投し、6対2で勝利。2日間24イニングをひとりで投げぬき、甲子園の切符を獲得した。背番号「1」の責任感が、最後までマウンドに立つ原動力となったのだ。
どんな状況でもマウンドに立ち続ける。そんなエースの責任感が発揮された試合はほかにもある。2007年のセンバツだ。
由規はこの大会の一週間前、練習試合でデッドボールが当たり、左手を骨折するという不運に見舞われる。だが、どんな状況でもマウンドに立ち、試合を作ってこそエース。痛みをこらえてマウンドに立ち、ストレートは最速150キロを記録。試合には1点差で敗れたものの14個の三振を奪い、評価をまた高めることとなった。そしてこの150キロこそ、夏の甲子園での「155キロ」の序章となったのだ。
高校時代の熱投伝説から9年。26歳になった由規は、イースタンの試合で150キロを超える球を投げ込んでいるという。だからといって、160キロ再び……といった期待をするのは酷だ。
「由規復活」。その言葉の意味は、球速ではなく、チームに勝利をもたらす、エースとしての姿のはず。甲子園を唸らせたあの日のように、再び野球ファンを唸らせてくれることを信じて、その復活の日を待ちたい。
文=オグマナオト(おぐま・なおと)