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《ホークス背番号列伝・第8回》野村克也が背負った背番号19が、森福允彦を最後に空席。次は誰だ?

《ホークス背番号列伝・第8回》野村克也が背負った背番号19が、森福允彦を最後に空席。次は誰だ?

 6月24日のソフトバンク対西武の一戦で、柳田悠岐がホークス選手としては51年ぶりとなる3打席連続本塁打を記録した。

 その51年前、1966年に3連発を放ったのは野村克也(当時、南海)。ホークスで背番号19を22年間背負った、言わずと知れたレジェンドだ。今回の「ホークス背番号列伝」は、野村退団後の背番号19の歴史を辿ってみたい。

ダイエー最初の開幕投手


 野村は1978年にロッテに移籍。それから3年間空白だった背番号19を1981年から引き継いだのは山内孝徳だった。

 山内孝徳は1979年のドラフト3位で南海に入団。1980年入団の山内和宏が背番号18、山内孝徳が背番号19、1980年から1982年にかけて3年連続で開幕投手を務めた山内新一が背番号20と、「山内トリオ」が背番号を連番で背負ったことで話題になった。

 山内孝徳はプロ2年目の1981年に7勝、1982年に13勝を挙げ、この年から7年連続で2ケタ勝利を記録。1983年には開幕投手に抜擢された。

 ダイエー元年の1989年にも開幕投手を務め、ダイエーの歴史の1ページを飾ったが、この年は3勝13敗と大きく負け越し。ダイエーになってからは4シーズンで12勝と低迷してしまう。プロ通算13年で100勝を積み上げ、1992年限りで引退した。

野手転向でブレイク


 1993年から背番号19を継いだのは大越基。

 1992年のドラフト1位で、投手として入団したが1軍では未勝利。1996年のシーズン中に野手起用がはじまり、同年オフに野手登録となり、背番号は51に変わった。

 野手としての大越は代走、守備固めで活躍。ダイエーが初優勝した1999年にはキャリアハイの82試合に出場。この年、フェンスに激突しながら捕球するファインプレーを見せた後、担架に運ばれたシーンは語り草になっている。

 2003年の日本シリーズでは全試合ベンチに入ったが、シリーズ終了後に戦力外通告。ユニフォームを脱いだ。


ダイエー初優勝の貴重右腕


 大越の後は、1997年にわずか3試合の登板で日本を去ったニコルズを挟み、1997年のドラフト1位・永井智浩が背番号19を背負った。

 永井は、ルーキーイヤーの1998年は7戦未勝利だったものの、1999年に先発ローテーション入りし10勝(5敗)。ダイエー初優勝に大きく貢献した。

 しかし、これがキャリアハイ。その後は故障にも悩まされ、2005年に戦力外通告。引退後はチームスタッフとなり、現在はフロント入り。球団をサポートし続けている。


野村の教え子左腕


 2007年から昨季まで背番号19番を背負ったのは森福允彦(現巨人)だった。

 社会人時代のシダックスでは、背番号19の大先輩・野村監督の教えを受け、2006年の大学生・社会人ドラフト4巡目で入団。ソフトバンクに在籍した10シーズンで384試合に登板。16勝14敗、18セーブ、125ホールドを記録した。

 2011年の中日との日本シリーズでは5試合に登板し無失点と活躍。8年ぶりの日本一に大きく貢献した。第4戦では、1点リードで迎えた6回、無死満塁の場面で登板。打者3人を抑え、ピンチを切り抜けた。この熱投は「森福の11球」として語り継がれている。

 森福は2016年オフにFAで巨人へ移籍。現在、背番号19を背負うものは誰もいない。

 野村以降、背番号19は投手が背負ってきたが、次は「打てる高卒捕手」野村の後継者として、九鬼隆平が背負うのはどうだろうと、個人的には思っている。

 ちなみに入団時の背番号は、野村が60、九鬼が65。2人とも60番台という縁もある。


文=溝手孝司(みぞて・たかし)
札幌在住。広告代理業を営みながら、ライター、イベントなどスポーツ関連の仕事もこなす。生まれも育ちも北海道ながら、ホークスファン歴約40年。

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