高校生にしてストレートは150キロ。遊び感覚でいくつもの変化球を操り、地方大会での防御率は0点台。東北高校時代から、ダルビッシュ有は特別だった。
一方、当時のダルビッシュの課題は「いかにして、投げないか」だった。成長痛に悩まされ、常に万全の状態ではなかったからだ。中学卒業時点での身長は191センチ。ところが、体重はわずか69キロ。骨の成長と筋肉の発育、あふれんばかりの野球の才能、それらが交通渋滞を起こしていた。
そんなダルビッシュを育てたのが、当時、東北高校を率いていた若生正廣監督(現・埼玉栄高野球部監督)だ。若生監督は、眩しすぎるダルビッシュの才能を理解したからこそ、目先の勝利よりも「将来」を優先。地道な筋力トレーニングと股関節のストレッチを少しずつ施し、試合では無理な連投はさせなかった。
この「投げたくても投げられない高校時代」があったからこそ、才能はまっすぐに大きく育ち、文字通り「超大型新人」としてプロへの道を歩むことができたのだ。
2005年、高校野球に別れを告げ、ドラフト1位で日本ハムに入団したダルビッシュ。ところが、彼はすぐに投げる機会を逸してしまう。未成年者にもかかわらずパチンコ店で喫煙していたことが報道されたからだ。
球団はダルビッシュに、「無期限謹慎処分」を言い渡した。結果、ケガの影響もあって、黄金ルーキー・ダルビッシュの1軍デビューは6月15日にまでずれ込んでしまう。
だが、この謹慎期間でしっかりとケガを治し、プロ仕様に体を鍛え直したことで、6月15日のプロ初登板・初先発の試合では見事にプロ初勝利。これは、高卒ルーキーとして史上12人目の快挙だった。
そして、今にして思う。この謹慎期間があったからこそ、ダルビッシュは本当の意味でプロ野球選手になれたのではないだろうか。ファンの前で投げる喜び、投げられることの感謝を理解するようになったからだ。
2012年、メジャー挑戦前の記者会見で、ダルビッシュは「入団前にいきなりやっちゃいました」と、この無期限謹慎処分について自ら言及。その上で、こんなコメントを残した。
「初登板のヒーローインタビューで、温かく迎えてもらえたのが、それからの頑張りにつながりました。皆さんがいなければ、僕はここにいなかった」
2009年。ダルビッシュはシーズン終盤に臀部を痛め、登録を抹消。それでも、ダルビッシュのシーズン成績は15勝5敗。この貯金「10」もあってチームはリーグ優勝を達成。クライマックスシリーズを勝ち上がり、日本シリーズに進出した。
そして、その日本シリーズがダルビッシュ復活登板の舞台となった。
当初、登板は絶望的、といわれながらも、エースとして42日ぶりのマウンドに立ったダルビッシュ。でも、ケガは完全には治っていなかった。そんな状況で、“豪腕”ダルビッシュが披露したのが、100キロ近いスローカーブを中心とした緩急を生かしたピッチングだった。
ダルビッシュ自身が「一世一代の投球ができた」と自画自賛する投球術で、チームに勝利をもたらしたのだ。
ケガをしても、本気のストレートが投げられない状況でもチームに勝利をもたらす男。シーズン終盤のもっとも大事な時期に40日以上も投げられなかったからこそ、「エースの自覚」がより強固なものになったのではないだろうか。
また、この頃から以前にも増して「顔」で投げられるようになった。「ダルビッシュが相手じゃ打てない」。相手チームにそう思わせる、有無を言わせぬ存在感を日本中に知らしめたキッカケも、やはりケガからの復帰戦だったのだ。
投げられない期間を経て、いつも大きく成長して戻ってきたダルビッシュ。だからこそ、1年という空白期間を経て、「新ダルビッシュ有」がどんな投球を見せるのかが楽しみでならない。
ちなみに、ダルビッシュはプロ入りする際、恩師・若生正廣監督と3つの約束を交わしたという。ひとつが「日本一になる」。もうひとつが「オリンピックで投げること」。このふたつは、もう達成済みだ。
そして、まだ達成できていない、3つ目の約束が「ワールドシリーズで投げること」。
5月15日現在、テキサス・レンジャーズはアメリカン・リーグ西地区2位。エース・ダルビッシュ有が復活を果たし、ローテーションに加われば、自ずと最後の約束成就に近づくことを意味している。それこそが、自身を成長させてくれた恩師への、最大の恩返しになるはずだ。
文=オグマナオト(おぐま・なおと)