インドネシアで「お父さんとキャッチボールができるようになれば」と普及に励む日本人物語(後編)
前田夏希さんの現在の職場は、ジャカルタ中心部から車で20分ほどの住宅街にある。昼夜問わず日本のラッシュアワー並みに混雑している電車は乗り換えが不便で、町の中心から小1時間かかった。猥雑な雰囲気の漂う駅前で“オジェック”と呼ばれるバイクタクシーに通りの名前を告げると、私を乗せたバイクは、渋滞を縫うように埃を巻き上げながら走った。
通りの入り口で立ち止まるバイク。「あとは自分で探すよ」という私を静止し、「行きたい場所まで行ってやる」と言う。細かな住所を聞いてくるが、とっさに出ない私は、「ベースボール」とだけ答えた。そのおそらくは聞きなれない言葉を、ドライバーが目の前のカフェでくつろいでいる男に伝えると、すぐに返事が返ってきた。
「そこだよ」と男が指さす先には、「The Hit Factory」の看板があった。元フットサル場だったというその施設には、人工芝が張られ、内野フィールドがしつらえられている。バッティングマシンも備えたその設備は、10代の選手の育成には十分なものだ。
☆なかなか野球が広がりにくい経済環境
インドネシアでの野球普及は、草の根の開拓といったレベルの話ではない。野球という競技の特性上、本格的なプレーにはある程度、お金がかかる。ましてや、「野球不毛の地」インドネシアでは道具類は基本的に輸入品で、割安で調達できる方法はほぼない。約1万6000円のアカデミーの月謝も、現地スタッフの月給が2万5000円ほどという現状では、普通の家庭にはとても払えるものでないことがわかる。
このような事情から、野球をプレーするのは富裕層が中心になってしまう。このアカデミーの会員も、日本人、アメリカ人の駐在員と「アメリカ発、そして日本で人気のクールなスポーツ」に憧れたインドネシア人の「お金持ち」の子弟が半々だ。
施設のある場所は郊外の住宅街。どちらかというと庶民の居住エリアだ。そういう地区の子どもたちが、練習が始まるとのぞきに来る。そのまなざしは、自分もやりたい、というものではなく、ただ珍しいから見に来た、というものだと前田さんは言う。高級車で乗り付けてくるお坊ちゃんの練習風景を、ボロをまとった地元のガキ大将が窓越しに見つめる、という風景に、この国の現実と野球普及の課題が見え隠れする。
本音を言えば、彼らにも野球を楽しんでもらいたい。しかし、貧富差という途上国の抱える問題がなかなかそれを許さない。気を許して、彼らを施設の中に入れれば、途端に備品がなくなる、ということも経験した。その現実の前に、前田さんも一度はここでの仕事を辞めようと思ったこともあったという。
☆まずは親子のキャッチボールから
前田さんは、インドネシア野球の課題として、頂点にプロがないことを挙げる。
「メジャーリーグの中継は有料放送でやってはいますが、それは画面であって、スゴさを肌で感じられる見本がない。それに、野球というスポーツが将来の仕事になる、という実感がないままでは、モチベーションも上がっていかないですよ」
その言葉からは、プロの頂点を目指してアメリカのフィールドで汗にまみれた自身の経験が見え隠れする。
この環境のせいか、ユニフォームに袖を通しただけで満足してしまう子も多いという。 そういう中でも、前田さんはインドネシアでの野球指導を前向きにとらえている。指導の苦労はないのか、という問いにも、「特にないですね」と明るく答える。
「(プロ経験のない)僕にはそんなに高度な指導はできません。彼らの“野球のカタチ”を作ることが僕の仕事です。子どもたちが今できる精一杯のことをできるようになってほしいです。あくまで個々のスキルアップが僕の仕事。野球を全く知らない子が、お父さんとキャッチボールができるようになればいい、そういうスタンスですね」
その言葉通り、教え子たちは、おのおのクラブチームに属している。彼らが所属するチームで活躍し、野球を心の底から楽しめるよう、彼は教え子との二人三脚の生活を送っている。
「これは、ここで作ってもらったんですよ」
前田さんは、現地の職人さんに特注したグラブを見せてくれた。少し柔らかすぎるような気もするが、少年野球レベルでは十分に用をなすだろう。これが量産され、スポーツ店に並ぶ日が来るまで、前田夏希の奮闘は続く。
文=阿佐智(あさ・さとし)
1970年生まれ。世界放浪と野球観戦を生業とするライター。「週刊ベースボール」、「読む野球」、「スポーツナビ」などに寄稿。野球記事以外の仕事も希望しているが、なぜかお声がかからない。一発当てようと、現在出版のあてのない新刊を執筆中。ブログ「阿佐智のアサスポ・ワールドベースボール」(http://www.plus-blog.sportsnavi.com/gr009041)
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