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【センバツトリビア】東京では選考で揉めに揉めて訴訟に発展!? 東邦商は大空襲から優勝旗を守った!

文=落合初春

【センバツトリビア】東京では選考で揉めに揉めて訴訟に発展!? 東邦商は大空襲から優勝旗を守った!
 今年も幕を開けるセンバツ。今回はセンバツのトリビア・事件簿を紹介しよう。

第1回は名古屋で開催された


 1924年、夏の甲子園と対になる形で創設されたセンバツ。夏の大会の黎明期は豊中球場、鳴尾球場で歴史を紡いでいったことがよく知られているが、第1回センバツの開催は甲子園球場が誕生する直前だった。

 そこで使用されたのは名古屋郊外にあった山本球場。地元の運動用具店を運営していた山本権十郎氏が建設したことから山本球場と呼ばれた。

 観客席は約2000席だったが、球場には多くの高校野球ファンが訪れ、ゴザを敷いたり、立見で観戦したという。

 ちなみに入場行進曲は『星条旗よ永遠なれ』。第4回から第8回大会は優勝チームの副賞がアメリカ遠征。当時は日米関係が悪化していなかったことがよくわかる。

“センバツ”で揉めて訴訟に…


 センバツのコンセプトは夏の甲子園大会とは違う“選抜型”。現在も関東・東京、近畿、中国・四国などは「最後の1枠」の行方が注目される。その選考を巡って、過去には大揉めしたことも……。

 1969年秋の東京都大会で準優勝を果たした帝京商工(現・帝京大高)が被害者(?)だ。当時、関東・東京は4枠で、選考では関東2枠、東京2枠に決まった。

 当然、準優勝の帝京商工が選ばれるはず……だったのだが、帝京商工は直前の火事で戦力分析の資料を焼失しており、心象を悪くして選ばれず。それどころか、準決勝で破ったはずの堀越が選ばれることになった。

 帝京商工側の腹の虫が収まるわけはない。そもそも紛失したのも練習試合3試合分のスコアだったというから、今の世なら、この選考漏れはとんでもない大炎上になっていたことだろう。帝京商工は「不当」として提訴。東京都高野連は対外試合禁止の処分を下すなど、泥仕合にもつれ込んだ。

 結局、帝京商工は出場できず、現在では考えられない選考結果となった。

燃えかけた紫紺の優勝旗


 夏の甲子園大会の「深紅の優勝旗」に対して、センバツの優勝旗は「紫紺の優勝旗」と呼ばれている。その初代の優勝旗は1962年の第34回大会まで使用された。だが、危機一髪の場面もあった。

 1941年のセンバツで優勝した東邦商(現・東邦)。しかし、その後は太平洋戦争の戦火が苛烈になり大会は中断。優勝旗は校長室に飾られたままだった。

 その戦火は名古屋にも襲いかかる。名古屋大空襲である。1945年3月19日の夜、爆撃で東邦商の体育館が全焼。校長室にも焼夷弾が降り注いだ。

 命あってこそ……だが、宿直の教師が焼夷弾を布切れでつかんで外に放り投げ、防空要員として駆けつけた生徒たちが貴重品を次々と運び出し、紫紺の優勝旗は守られた。

 1947年、戦後初めてのセンバツで優勝旗を返還。「戦火から守り抜いた」として、東邦商は万雷の拍手を浴びた。

文=落合初春(おちあい・もとはる)

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