大阪桐蔭の史上2度目の春夏連覇で幕を閉じた夏の甲子園。秋田勢103年ぶりの決勝進出を果たした金足農の快進撃を始め、100回記念にふさわしい炎天下の大熱戦が続き、あらためて甲子園の魅力を大いに知らしめた。
100回の歴史のなかで、今夏の大会で初めて目の当たりにした「甲子園の風景」があった。タイブレークだ。今年のセンバツから導入された新制度は、今夏の2ゲームで初適用された。
初の適応試合では、終盤、毎回のように走者を背負う苦しい展開をしのいだ佐久長聖が延長14回で旭川大高をふりきり、タイブレーク初勝利。投打に強力な布陣を敷いて初優勝を狙った星稜は、延長13回に史上初の逆転サヨナラ満塁弾を浴び、済美に屈した。
後攻が有利? まずは送りバントをするべき? と、戦い方のハウツーを探る議論も呼んだタイブレークを巡って、新たな延長戦のドラマが生まれていくことだろう。
ここでは、甲子園の歴史を動かしてきた出来事として、延長戦のルールの変遷をみていきたい。
まずは無制限に延長戦を行っていた時代の伝説のゲームから。1933年夏、夏の甲子園3連覇を目指す中京商(現中京大中京)が準決勝で明石中(現明石)と延長25回の死闘を演じる。しかもスコアはゼロ行進。当時のスコアボードは16回分しかなかったため、17回以降は手書きのスコボードが横に長く継ぎ足されていった……。試合は中京商が1対0で勝利。決勝戦をものにした中京商は史上唯一の夏3連覇を果たした。
ちなみに延長25回を無失点で投げきった中京商の吉田正男は、3連覇に至る夏3度のマウンドに立ち続けた戦中期の大エース。戦前の学生制度が違ったため甲子園に春夏6度出場できたが故の記録ではあるが、その間に積み重ねた勝利は夏無敗の23勝(3敗)。これは甲子園通算最多勝利だ(戦後の甲子園通算最多勝利は桑田真澄[PL学園、元巨人ほか]の20勝[3敗])。
日本が戦争に突き進む“人間酷使の時期”だったからか、この25回の死闘が選手の健康管理云々で問題視されたという記録は、筆者は目にしたことがない。延長戦無制限にストップがかかるのは、戦後を待つことになる。
1958年に83奪三振という一大会通算記録を打ち立てた板東英二(徳島商、元中日)。100回大会でも始球式を行うなど、甲子園史のレジェンドとして真っ先に名前が挙がる存在だ。実は同年、板東は延長戦のルールを変え、しかも新ルール適応第1号にもなっている。
きっかけは1958年春季四国大会での板東の熱投。板東は準決勝で16回、翌日の決勝では25回を一人で投げきり、さすがに「投げすぎだ……」と問題になる。そこで、延長戦は18回まで、引き分けた場合は再試合とルールが変わったのだ。
迎えた同年夏の甲子園、準々決勝の魚津戦。板東はまたもや延長18回を、そして引き分け再試合を1人で投げきった。今となっては奪三振記録で語られることが多い板東だが、“延長18回・引き分け再試合”の成り立ちに深く関わった鉄腕だったことも覚えておきたい。
なお、この大会で板東の徳島商は準優勝。準決勝では作新学院を4対1で退けたが、決勝では柳井に7対0で完敗。さしものタフネスも頂点を目の前に力尽きた……。
“延長18回”は板東が変えた1958年から42年間続いた。その後、さらに延長戦でのイニング数を短縮させたのも、これまた甲子園レジェンドの松坂大輔と言われている。1998年夏、PL学園との死闘で17回250球を投げきったことで「投手の酷使防止」の議論を呼んだのだ。
板東の時代は、まだまだ“腕も折れよ”とばかりに投げ続ける満身創痍のエースの姿が当たり前だった。しかし1991年夏に、右ヒジの故障を押して決勝までの6試合773球を投げ、投手生命を断たたれた大野倫(沖縄水産、元巨人ほか)の悲劇などが問題視され、松坂の時代には選手の健康管理が大きな課題となっていた。
松坂は、PL戦後の翌日、準決勝・明徳義塾戦で最終回にリリーフ登板。テーピングを剥ぎ取り、マウンドに上がる勇姿はスタンドを熱狂させたが、やはり登板過多だったのは否めない(とはいえ、決勝でノーヒットノーランを決めるあたりはさすが怪物の面目躍如で、松坂を基準にはしにくいのだが……)。
こうした流れを経て、2000年のセンバツから延長戦は15回までに。そして、前述した通り、今年がタイブレーク元年となった。決着が着きやすいと見られるタイブレークは、勝敗が決まるまで無制限で続けられる。もしかしたら、中京商対明石中の延長25回を超え、最長伝説と語り継がれる延長戦が生まれるかもしれない。
今後、タイブレークにおける攻守の戦術は進歩し、それに備えた投手編成の在り方も変わってくるだろう。タイブレークの導入に一抹の味気なさを感じているファンも多いだろうが、ここは気持ちを切り替えて新たなドラマの誕生を楽しみにしたい。
文=山本貴政(やまもと・たかまさ)