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エース・福嶋一雄が5試合連続完封で、小倉中・小倉高が戦後初の夏連覇!【高校野球100年物語】

【この記事の読みどころ】
・戦争で変わり果ててしまった甲子園
・5試合連続完封で大会連覇を果たした小倉中・小倉高のエース・福嶋一雄
・左手一本でノックを打ち、全国制覇に導いた、平安の監督・西村実

〈No.036/印象に残った勝負〉
雨中の大熱闘。阪神間決戦となった1949年センバツ決勝


 戦後のセンバツを盛り上げたのは地元・近畿勢だった。1948年の決勝戦は京都一商対京都二商という、史上初の同一地区による争いに(結果は京都一商が延長戦の末、勝利)。そして翌1949年の決勝戦は大阪・北野と兵庫・芦屋という阪神間決戦に。この両校は甲子園球場から左右に20分以内という隣同士といっても過言ではない近距離にある学校だっただけに応援合戦も当然のごとく盛り上がった。

 試合は9回裏に同点に追いついた芦屋が、延長で2点先行されてもすぐに追いつく、という粘りを見せる展開。満員の球場のボルテージも最高潮を保ったまま迎えた、延長12回に北野がさらに2点を挙げ、粘る芦屋を振り切って栄冠を手にした。延長戦以降は雨中での試合となったが、観客は誰も席を立たず、声を枯らして声援を送った。

〈No.037/泣ける話〉
戦渦によって変わり果てた甲子園球場


 2015年は「高校野球100年」というメモリアルイヤーであり、また、戦後70年という節目の年でもある。戦争が高校野球に与えた影響についてもしっかり振り返っておかなければならない。

 1941年の夏の大会から1946年のセンバツまで、春・夏ともに5年間の空白期間が生じたわけだが、この間、甲子園球場も大きく様変わりした。まず、内野スタンドを覆っていた鉄傘が海軍へ供出され、姿を消した。さらに、球場そのものも軍に接収されて常駐地となり、食糧不足に対応するため、グラウンドは芋畑に姿を変えた。

 戦後もしばらくはGHQの常駐地として使用されたが、関係者の尽力によって1947年のセンバツから甲子園球場の使用が復活。鉄傘も1951年には新たに設置され、銀色のジェラルミン製だったことから「銀傘」と呼ばれるようになった。

〈No.038/印象に残った選手〉
焼け跡に灯をともした大エース・平古場昭ニ


 終戦から1年。復活開催となった1946年の夏の甲子園を盛り上げたのは大阪代表の浪華商であり、エースの平古場昭ニだった。その左腕から繰り出す快速球にほとんどの球児が手も足も出ず、準決勝では1試合19奪三振の大会記録(当時)をマーク。4試合で62個の三振の山を築き上げ、浪華商を大会初優勝に導いた。

 余談だが、大会後に梅田から御堂筋までパレードを行った浪華商。真紅の優勝旗が赤旗を掲げたデモ行進と勘違いされて軍警察に中止を命じられた、というハプニングも生んでいる。

〈No.039/印象に残った監督〉
左手1本の熱血ノック。情熱の隻碗監督・西村実


 戦渦によって運命が変わったのは選手たちだけではない。平安の監督・西村実(旧姓木村)もまた、戦争によって野球への取り組み方が変わった一人だ。平安が初優勝した1938年の優勝メンバーだった西村。卒業後はプロでも活躍したが、太平洋戦争で右手首を失い、プレーヤーとしての道を閉ざされてしまう。それでも野球への情熱を失わなかった男は、監督として現場に戻ってきた。

 右手にはめた義手にボールを乗せ、左手1本でノックをする熱血指導が代名詞。『片腕しかないおれがここまでできるんだ。お前たちになら絶対できるぞ』と檄を飛ばし、1951年の夏の大会で遂に平安を全国制覇に導いた。

〈No.040/知られざる球場秘話〉
球音再び。西宮球場で復活を果たした戦後の野球


 太平洋戦争が終結したのは1945年8月15日。その日からちょうど1年後の1946年8月15日、第28回大会として全国中等学校野球大会が復活した。ただ、甲子園球場はGHQに接収されていたため使用できず、代替地として選ばれたのが西宮球場だった。

 ただ、開催までの道のりは平坦ではなかった。西宮球場の所有者は阪神電鉄のライバル社・阪急電鉄。学生野球のメッカとして多くの来場者を集めていた甲子園にジェラシーもあり、「1回だけの開催は嫌だ」「駅のホーム拡充の費用を負担してほしい」といった条件が阪急電鉄サイドから提示された。だが、占領下のため将来の確約を取り付けることができなかったこと、さらには大会復活を目指す関係者たちの熱意にほだされる形で、最終的には無条件で大会開催を了承した。

〈No.041/時代を彩った高校〉
福島一雄の快投で戦後初の「夏連覇」を達成した小倉中・小倉高


 戦後の大会で最初に黄金期を築いたのが小倉だった。聖地・甲子園球場が戻ってきた大会であり、戦後の学制改革によって最後の「中等学校大会」となった1947年の第29回大会を制したのが小倉中。そして翌1948年、初めての「全国高等学校野球選手権大会」として開催された第30回大会を制したのも小倉高だった。

 この大会2連覇を牽引したのがエースの福島一雄。上手・下手を使い分ける投球術で福岡県勢初の全国制覇に貢献。翌年はさらに圧巻の投球で、嶋清一(海草中)以来、史上2人目の5試合連続完封で大会連覇を達成した。

▲福島一雄(小倉)/イラスト:横山英史

〈No.042/世相・人〉
日本の夏の風物詩、「栄冠は君に輝く」誕生秘話


 戦後の学制改革によって「全国高等学校野球選手権大会」と改められた1948年の第30回大会。この年はもう1つ、「栄冠は君に輝く」が大会歌として採用された、という節目の大会でもあった。

 作曲は古関裕而、作詞は加賀大介。だが、発表からしばらくの間、作詞名には「加賀道子」と記されていた。というのも、歌詞は主催の朝日新聞社が全国から募り、これに応募したのが石川県で文筆活動をしていた加賀大介。その際、当時の婚約者だった道子さんへのプレゼントということで、作者を「加賀道子」として応募した。するとその作品が応募総数5,252通のなかから最優秀作品として見事に当選。それからずっと作詞者は「加賀道子」のままだった。

 その後、1968年の第50回大会のときに加賀大介が真実を告白。以降は「作詞・加賀大介」と改められ、今日まで愛され続けている。


■ライター・プロフィール
オグマナオト/1977年生まれ、福島県出身。広告会社勤務の後、フリーライターに転身。「エキレビ!」、「AllAbout News Dig」では野球関連本やスポーツ漫画の書評などスポーツネタを中心に執筆中。『木田優夫のプロ野球選手迷鑑』(新紀元社)では構成を、『漫画・うんちくプロ野球』(メディアファクトリー新書)では監修とコラム執筆を担当している。近著に『福島のおきて』(泰文堂)。Twitterアカウントは@oguman1977(https://twitter.com/oguman1977)

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