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【高校野球100年物語】甲子園はこの男のために……不滅の13本塁打、清原和博〜昭和後半編

 夏の甲子園の前身である「全国中等学校優勝野球大会」。今年の大会をもって、100年が経過したことになる。この100年の歴史を振り返り、激闘、印象的な選手、感動する話などを伝えるこのコーナー。今回は昭和後半に起きた、印象的な出来事を紹介しよう。


〈昭和後半/泣ける話〉
戦渦によって変わり果てた甲子園球場


 2015年は「高校野球100年」というメモリアルイヤーであり、また、戦後70年という節目の年でもある。戦争が高校野球に与えた影響についてもしっかり振り返っておかなければならない。

 1941年の夏の大会から1946年のセンバツまで、春・夏ともに5年間の空白期間が生じたわけだが、この間、甲子園球場も大きく様変わりした。まず、内野スタンドを覆っていた鉄傘が海軍へ供出され、姿を消した。さらに、球場そのものも軍に接収されて常駐地となり、食糧不足に対応するため、グラウンドは芋畑に姿を変えた。

 戦後もしばらくはGHQの常駐地として使用されたが、関係者の尽力によって1947年のセンバツから甲子園球場の使用が復活。鉄傘も1951年には新たに設置され、銀色のジェラルミン製だったことから「銀傘」と呼ばれるようになった。


〈昭和後半/印象に残った選手 part1〉
高校野球の「延長ルール」をつくった奪三振王・板東英二


 1958年、徳島商の板東英二は投げに投げまくった。

 まずは4月。春季四国大会・準決勝の高知商戦では延長16回を、翌日の決勝・高松商戦でも延長25回を一人で投げ抜いた板東。この登板過多は当時でも社会問題となり、「延長18回を終えても引き分けの場合は翌日に再試合を行う」というルールが制定されるキッカケとなった。

 そして夏。甲子園の準々決勝、徳島商対魚津の試合は、0−0のまま、延長18回まで終わり、引き分け再試合となった。これに導いたのがやはり板東英二。自身の投げ過ぎがキッカケで生まれた新ルールの適用第一号だった。

 翌日の再試合に勝った徳島商は、最終的に決勝にまで駒を進めて準優勝。再試合も含めた6試合で坂東が奪った三振は83個を数えた。この数字は今も破られない、1大会最多奪三振記録である。


〈昭和後半/印象に残った勝負 part1〉
史上初! 伝説となった決勝戦での延長18回引き分け・松山商対三沢


 1969年8月18日13時にプレーボールが宣告された第51回大会決勝戦。古豪・松山商に挑むのはアイドル球児・太田幸司(元近鉄ほか)を擁する三沢だった。松山商の先発、井上明が「柔」とすれば、太田は「剛」。好対照な両投手の投げ合いでスコアボードには「0」が並んだ。

 先に勝利に近づいたのは三沢。延長15回と16回、ともに1死満塁という大チャンスを迎えるものの、相手の堅守とスクイズ失敗などで無得点。そのまま18回までゼロ行進が続き、史上初の決勝戦で延長18回引き分けとなった。

 翌日の再試合では、前日にあれほど打てなかった松山商が1回表に2ラン本塁打で先制。三沢もすぐさま1点を返すが、その後もミスが続き、4−2で松山商が優勝。真紅の優勝旗は白河の関を越えることができなかった。


〈昭和後半/印象に残った勝負 part2〉
時代が変わった瞬間! 1983年夏、池田対PL学園


 1983年、夏の甲子園の最大の注目は「夏春連覇」を達成していた池田が史上初の「3季連続V」を成し遂げるかどうか。その期待に応え、エース・水野雄仁(元巨人)と自慢のやまびこ打線の活躍で順調に勝ち上がった。そして、準決勝でPL学園と対戦する。

 1981年、1982年にセンバツ連覇を達成していたPL学園ではあるものの、夏は5年ぶりの出場。しかも、エースと4番が1年生とあって、誰もが池田の決勝戦進出を疑わなかった。ところが、終わってみればPL学園が7−0で池田をシャットアウト。自慢のやまびこ打線は1年生エース・桑田真澄(元巨人ほか)の前に鳴りをひそめ、水野雄仁は公式戦で初めての被本塁打を、その桑田相手に献上してしまった。

 1980年代前半、高校野球を牽引していた池田の栄華が終わり、“PL学園王朝”へと移り変わる、まさに時代の分水嶺と呼ぶべき試合だった。


〈昭和後半/印象に残った選手 part2〉
甲子園はこの男のために……不滅の13本塁打、清原和博


 甲子園通算13本塁打(春4本、夏9本)。今後も破られそうにない不滅の大記録を打ち立てた男こそ、PL学園の主砲・清原和博(元西武ほか)だ。2位タイの桑田真澄、上宮・元木大介(元巨人)で6本塁打。いかに清原の記録が図抜けていたかがわかるだろう。

 また、名門で1年から4番を務めたからこそ、ただ遠くに飛ばすだけでなく、勝つためのチームバッティングを身につけていたのが清原だった。甲子園通算91打数40安打29打点。打率は4割4分。当初はトーナメントが進むほど成績が落ちることもあったが、最後の夏は準々決勝以降で5本塁打、10打数8安打と打ちまくって、4番の重責を果たした。3年夏の決勝戦、2打席連続本塁打を放った清原に対して、実況アナウンサーは「甲子園は清原のためにあるのか!」という名文句を残した。

▲清原和博

(文=オグマナオト/イラスト=横山英史)

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