挫折続きの野球人生だった。
小・中学校時代にはイジメにあっていた。
中京高(現中京大中京高)時代、1学年下の鈴木一朗(イチロー)擁する愛工大名電高に阻まれ、甲子園には出られなかった。
法政大時代、大学日本代表に選ばれても、注目のドラフト候補とまでにはなれず。たまたま息子である野村克則(当時明治大)の試合を見に来た野村克也(当時ヤクルト監督)が、稲葉の存在に気付かれなければ、ヤクルトから、また他球団からのドラフト指名はあったかどうかはわからない。つまり、プロ入りさえも出来なかったかもしれない。
ヤクルト時代の活躍を経て、メジャー移籍を視野にFA宣言した2004年オフ。どこからも声がかからないという屈辱的な結果を受け、失意のうちに北海道に新天地を求めた。
挫折続きの野球人生……でも、壁にぶつかり、失敗や負けを経験してからこそが稲葉篤紀の真骨頂だった。
《僕は負けることが必ずしも失敗だとは思っていません。負けて得ることもたくさんあるのです》(稲葉篤紀著『THANKS FANS!』より)
挫折を繰り返し、遠回りをしたからこそ得られたものが、稲葉篤紀を成長させたのだ。特に、メジャー挑戦の断念、という挫折を経て、日本ハムに移籍して以降の成長曲線は目覚ましいものがあった。ヤクルト時代も間違いなく「いい選手」だったが、日本ハム移籍以降、つまり30歳を超えてから、稲葉は「代えの利かない選手」へと変貌を遂げた。