小山正明・山内一弘、田淵幸一・真弓明信、落合博満・牛島和彦…。歴史的WIN・WINトレード3選
史上初となる同一年でのFA選手3人補強に成功した巨人。加えて、このオフはトレードにも積極的だ。特に日本ハムとの間で成立した、2008年のドラフト1位で「未完の大器」と言われ続けた大田泰示と、2006年の高校生ドラフト1巡目で、パ・リーグMVP経験もある吉川光夫らによる「ドラ1同士」の大型トレードは大きな話題となった。
もっとも、過去にはもっと世間を驚かせた大型トレードがいくつもある。そして、トレードは両球団にとってメリットがなければ意味はない。そこで、歴代トレード劇において、両球団に大きな「WIN」をもたらした「3大・大型トレード」を振り返ってみよう。
<1>【1963年オフ】阪神:小山正明 ←→ 大毎:山内一弘
小山正明は阪神で8年連続2ケタ勝利を挙げ、1962年には沢村賞も獲得。当時すでに通算176勝を挙げていた阪神の大エースだ。一方の山内一弘は本塁打王、打点王の経験もある大毎オリオンズ不動の4番。リーグを代表するスター選手同士の移籍劇は「世紀のトレード」と呼ばれ、世間を大いに騒がせた。
このトレード劇は、オリオンズの永田雅一オーナーから仕掛けたもの。当時のオリオンズといえば「ミサイル打線」と称された打撃のチームだったが、1960年の優勝以降、3年連続Bクラスと低迷していた。
打撃重視から守り重視へ、今でいうところの「超変革」を模索していた永田は、「阪神の小山が球団に嫌気」という噂をキャッチ。自ら大阪に出向き、「小山君を獲得できるなら、出すのは誰でも構いません」と阪神に直談判した。
阪神としても、当時の課題はチーム打率が2割台前半だった貧打線。「ホームランが打てて4番を任せられる山内君が来てくれるなら、小山を出してもいい」と、このトレードを受諾した。
オリオンズのエースとなった小山は、移籍1年目に30勝を挙げ、自身初の最多勝を獲得。オリオンズでの9年間で140勝を挙げ、通算では歴代3位の320勝を記録。1970年のオリオンズ10年ぶりの優勝にも名を連ねた。
一方、阪神の4番になった山内は移籍1年目に31本塁打、94打点を記録。4番として阪神2年ぶりのリーグ優勝に貢献し、通算でも史上2人目となる2000本安打を達成。両選手、両チームにとって好循環を生むトレードとなった。
<2>【1978年オフ】阪神・田淵幸一ほか ←→ 西武・真弓明信ほか
阪神在籍10年で通算320本塁打を放ち、「ミスタータイガース」と呼ばれた男・田淵幸一。そんな球界屈指のスターが1978年11月15日の深夜3時、突如の記者会見に応じ、「一言で言えば西武に出すということだった」と涙ながらに発した。
チームの至宝に阪神球団がトレードを通告したのは、記者会見1時間前の深夜午前2時。非常識なトレード通告に田淵の怒りは収まらなかった。田淵と一緒に西武にトレードされることになったベテラン投手・古沢憲司もまた、「トレードは仕方ない。けれど、今回の球団のやり方はちょっと汚すぎる」と怒りを露にした。
一方、西武から阪神に移籍したのは、この年、パ・リーグのベストナインに選ばれた真弓明信ら4選手。「セ・リーグだったらテレビに出る機会も多く、名前も売れるからやりがいがある」と喜ぶ真弓の姿は、田淵とはあまりにも対照的だった。
しぶしぶ西武へのトレードを了承した田淵だったが、移籍のおかげで得たものは多かった。移籍2年目の1980年には5年ぶりの40本塁打超え(43本)を記録。移籍4年目の1982年にはチームリーダーとして若手を引っぱり、阪神時代になし得なかったリーグ優勝と日本一を達成。翌年も日本シリーズ連覇を果たした。
一方、阪神に移籍した真弓は1983年に首位打者を獲得。1985年には一番打者ながら打率.322、34本塁打で阪神の21年ぶり日本一に大きく貢献。「史上最強の1番打者」として恐れられた。
<3>【1986年オフ】ロッテ・落合博満 ←→ 中日・牛島和彦ほか
前代未聞の「1対4のトレード」が発表されたのは、もう少しでクリスマス・イブを迎えようかという1986年12月23日の午後10時過ぎ。トレードの主役は、その年、史上最多となる3度目の三冠王を獲得したロッテの落合博満だ。
チーム成績も観客動員も伸び悩むなか、圧倒的な個人成績を残す落合の年俸のやり繰りに頭を抱えていたロッテ球団。落合としても、慕っていた稲尾和久監督が解任され、「稲尾さんのいないロッテに自分はいる必要がない」と発言。双方に「トレードするなら今しかない」という空気が生まれていた。
この機を逃さなかったのが、中日の新指揮官に就任したばかりの星野仙一監督。主力選手であっても交換要員として受け入れる姿勢を見せ、ドラフト1位で中日に入団以降、中日投手陣の屋台骨を支えていた牛島和彦を含めたトレードが実現した。
落合は中日移籍2年目の1988年に勝利打点と最高出塁率のタイトルを獲得する活躍で、中日の6年ぶりの優勝に貢献。その後も、史上初となる両リーグでの本塁打王と打点王を獲得するなど、期待通りの働きを見せた。
一方の牛島は、移籍1年目に24セーブ、26セーブポイントで最多セーブと最優秀救援投手賞を受賞。これが、プロ入り初のタイトルだった。さらに翌年も最多セーブのタイトルを勝ち取り、1989年には先発に転向し12勝を挙げた。
その後、右肩の故障で32歳での引退となったが、卓越した投球理論には信奉者も多く、小宮山悟や伊良部秀輝など、のちにロッテのエースとなる投手を数多く導いたことも見逃せない。
田淵にしても落合にしても、しっかりと数字を残せたのは移籍2年目。すぐに結果を求めるのは酷かもしれないが、大田や吉川が新天地でどんな結果を残すのか、大いに注目したい。
文=オグマナオト