「ダイダオトコ、タカイ」の執念
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おそらくはまだ、“宴”の余韻が残っていることでしょう。前回に続いて、オールスターゲームにまつわる野球人の話です。
1951年から始まった、日本プロ野球のオールスター。2012年までに全160試合が開催されています(締切の関係で今年の試合結果を踏まえられないこと、何卒ご了承ください)。
そのうちサヨナラゲームは11試合あるのですが、代打本塁打で勝負が決まったケースは一度しかありません。
1974年7月21日、後楽園球場で行われた第1戦、阪急(現オリックス)の高井保弘が放った代打逆転サヨナラ2ラン。球宴史上初の一打でした。
今から39年前。小学3年生だった僕は友だちと空き地で野球をやり出して、テレビのプロ野球中継を見始めた頃でした。東北に住んでいたので当時は地元球団もなく、特定のチームを応援するほどのファンでもなかった。それだけに普段とは違う試合、オールスターの記憶も残っていないのですが、アナウンサーが「ダイダオトコ、タカイ」と発した言葉と、やや高い声のトーンだけは憶えています。
ダイダオトコ――野球には「代打」というものがあるのだと知ったのは、そのときだったかもしれません。そして、それから30年後になりますが、僕は「代打男」高井さんにインタビューする機会を得ました。
「あんときは自分でどうやってベース回って来たのか、なんもわからんような状態やった」
初の晴れ舞台で大仕事をやってのけたときの記憶を、当時59歳の高井さんはそんなふうに表現してくれました。
「だいたい、ワシがオールスターに出るなんて、最初は冗談かと思った。マネージャーに『おまえウソつくなよ。新聞見るまで信用せんわい』って。それが明くる日見て、ホンマや……と」
「代打男」と呼ばれていただけに、阪急のレギュラーではなかった高井さん。それがプロ11年目でまさかの初出場となった背景には、同僚の外国人選手に影響を受けたひとつの技術がありました。
高井さんは愛媛の今治西高からノンプロの名古屋日産を経て、1964年に阪急に入団。高校のときから山内一弘(元毎日ほか)の打撃に魅力を感じ、プロでも長距離砲になることを目標にしていたそうです。
まだドラフト制度がなかった時代、3球団以上から誘われた中で阪急を選んだ理由は、チームの成績が低迷していて選手層も薄かったから。
「でも、甘くなかったね。外人様がトコトコやって来て。スペンサーやら、ウインディやら」
球団の補強戦略もあって、プロ入り当初の2年間はファーム暮らし。それが3年目に初の1軍出場を果たしたとき、その技術に出会ったのでした。
「スペンサーがね、打って帰ってくるたんびに、小さいノートになんか書きよるのを見た。通訳に訊いたら、『相手ピッチャーのクセを書いとる』と言う。へぇ〜、そんな勉強の仕方もあるんかいなということで、書いときゃ忘れんやろと思って、自分でも始めたんや」
おもに、振りかぶったときの腕の角度、セットに入ったときのグラブの形や位置などに表れるピッチャーの“クセ”。それぞれの違いで球種を見分けられたそうですが、プロのバッター、たとえ打つ寸前でも球種がわかれば、かなり有利なのです。
インタビュー中、クセを書き留めたメモ=ノートを見せてもらいました。
ノートはボロボロになっているものと、真新しいものと、二種類。相手5球団ごとにわかれているので、それぞれ5冊。
▲高井さんのクセ盗みメモ、実物。右側の可愛いらしいノートが予備用で、左側が実戦携帯用。
「こっちは常にポケットに入れて持ち歩いてたからボロボロになっとるけど、クセを見つけたらすぐ書いてた。で、家に帰ってからこっちのノートに付け直すわけ。ボロボロのをなくしたらあかんからね」
つまり真新しいノートは予備用で、そこまで細心の注意を払って保管していたことに驚かされました。常時1軍出場はできなかったなかでも、代打でも、対戦するごとになんとかクセを盗んでは書き留めていったそうです。
▲ある投手のクセをメモしたもの。<ゆっくりセットする ストレート スライダー>と書いてある。球種は記号でも表す。
1軍に定着できなかった時代は当然、ファームでの出場が多かった高井さんですが、2軍のピッチャーは特にクセを見抜かなくても打てたとのこと。67年にはウエスタン・リーグの首位打者になるなど、ファームでは9つものタイトルを獲って通算71本塁打。
それだけ打っても1軍での出番が増えなかったのは、守備力が伴わなかったことに加え、当時の西本幸雄監督の「高井は変化球が打てんから使わん」という方針もあったようです。
ただ、1970年の高井さんは66打数で5本塁打。少ない打席で結果を残して、ましてチーム内で飛距離はナンバーワン。この頃になると西本監督も戦力として見るようになり、ファーストでのスタメン出場が増えた72年にはシーズン15本塁打と、ついにブレイクします。さらに翌年には本塁打こそ8本も、打率は2割8分を超えました。
「その2年間でね、もう1回やったろう! という気持ちになった。メモしといたクセも、バッティングに生きるようになったしね」
西本監督が73年限りで辞任し、新たに上田利治監督が就任した74年。高井さんは6月28日の太平洋(現西武)戦で通算14本目の代打本塁打を放ち、中西太(元西鉄)、穴吹義雄(元南海)が持つ13本の日本記録を更新。監督推薦によるオールスターは初出場が決まったのは、それから間もなくのことでした。
パ・リーグを率いる南海(現ソフトバンク)の野村克也監督が、「苦労人に報いてやりたい」と、長い下積み生活に耐えてきた代打男に光を当てたのです。
「ノムさんもテスト生で南海に入って、ずーっと苦労して這い上がった人やから。やっぱり、同じリーグで、アイツも苦労しとるな、というふうに見とってくれたんやろうね。そりゃあ感激したよ」
第1戦。セ・リーグが2対1とリードして迎えた9回裏。マウンドには松岡弘(当時ヤクルト)が上がっていて、一死後に代打の土井正博(当時近鉄)が三塁強襲ヒットで出ると、野村監督は球審に「代打、高井」と告げました。
「準備はできてたけど、緊張で手はブルブル、足はガクガク震えたよ。でもね、松岡のクセ、うろ憶えに憶えとった。いつかはセ・リーグのピッチャーも役に立つやろうと思って、オープン戦でもメモしてたんや。そんなかでも、松岡のはわかりやすいクセやったから」
見せてもらったメモはノートではなく、わら半紙にペンで書かれていました。<左ヒジが上がったらカーブ>、<左肩が下がってくると速い球>、テークバックのときの動きに違いがあると。
松岡の初球、高めのボール球の真っすぐ。左肩が下がっている、とクセを確認した高井さん。「ランナー一塁だからゲッツー狙いで来る。内角低めで詰まらそうとするだろう」と読んでいました。そして2球目、やはり左肩が下がって、真っすぐが低めに――。
「ありゃあ、かなり低いけどいったれと。もともとワシは低めが好きやからね。で、カーンと打ったら左中間に飛んでいってもうて」
内角低めの速球をとらえた打球は、低い弾道のライナーで左中間スタンドの最前列に突き刺さりました。それがオールスター史上初の代打逆転サヨナラ本塁打になったわけですが、セ・リーグ相手のオープン戦でもピッチャーのクセを盗んでいた高井さんの、執念が生んだ一打とも言える気がします。
「打った後、ボーッとなって、カッカして、なんや、雲の上、走ってるみたいやった。ふわふわふわ、ふわふわっとして。あれ? ベース踏んだんかいな、と思ったら、頭どついとるヤツがおるから、そこで初めて、あっ、踏んどるな、思ったんよ」
のちに映像で確認すると、頭をどついたのは満面の笑みで待ち構えていた野村監督でした。さらには上田監督、長池徳二、加藤秀司と阪急勢が出迎えて、その後はもみくちゃになっています。
「こんな感激はもう一生味わえんと思ったね。何より、ワシを選んでくれたノムさんにええ恩返しができてよかった」
さて、そんな高井さんの球史に残る一打が、まさに日本プロ野球の歴史を変えるきっかけにもなったのですが、この話はまた次回。
▲2004年4月に取材した当時の高井さん。現役時代は体重90キロの巨漢で“ブーちゃん”と呼ばれていたが、かなりほっそりとしていた。
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文=高橋安幸(たかはし・やすゆき)/1965(昭和40)年生まれ、新潟県出身。日本大学芸術学部卒業。雑誌編集者を経て、野球をメインに仕事するフリーライター。98年より昭和時代の名選手取材を続け、50名近い偉人たちに面会し、記事を執筆してきた。昨年11月には増補改訂版『伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)を刊行。『野球太郎No.005 2013夏の高校野球大特集号』では『伝説のプロ野球選手に会いに行く』の番外編として、「伝説の高校球児」バンビこと坂本佳一氏(東邦高)のインタビューを掲載している。
ツイッターで取材後記などを発信中。アカウント
@yasuyuki_taka