2013年10月5日、2人のプロ野球選手の引退試合が行われた。中日ドラゴンズの山?武司と、阪神タイガースの桧山進次郎だ。
山?は、中日、オリックス、楽天と3球団を渡り歩き、一昨年再び中日に復帰、1996年と2007年にホームラン王を獲得した日本を代表するスラッガーだ。かたや桧山は、阪神一筋22年、近年は「代打の神様」と言われ、代打での通算打点が100を超える勝負強さが持ち味のバッターである。
そんな2人だが、年齢(山?武司が1歳年上)も入団の年も異なり、同じチームでプレーしたことは一度もない。しかし、ひとつ大きな共通点があった。それはどちらも野村克也監督と星野仙一監督の下でプレーしたという事実である。2人が野村、星野両監督との出会いによって、その後の野球人生にどんな影響をもたらしたのだろうか。
【日本一退場したホームラン王・山?武司】
星野氏が初めて中日監督に就任した1986年オフ、ドラフト2位で入団したのが山?だった。つまり星野監督の最初の教え子たちだ。当時、星野監督は若干39歳と血の気が多い時期。それだけにまさに“闘将”という乱闘シーンも少なくなかった。その勝ち気な部分を良くも悪くも受け継いだ山?は、現役日本人選手の中でダントツとなる通算6回の退場処分を受けた。ちなみに退場6回は星野監督と同じ回数である。
そんな戦う血の遺伝子をきっちり受け継いだ山?だが、打撃では1996年にホームラン王になった後は、ナゴヤ球場からナゴヤドームに本拠地が変わったこともあり、本塁打が増えた年は打率を落とし、打率が上がった年は本塁打が減り、と偏りが出る成績が続いた。
トレードで渡ったオリックスでも不調を極め、2004年オフの球界再編時、楽天に拾われる。そこで野村監督と巡り会う。野村監督から教わった野球理論により、投手の配球や駆け引きについて初めて考えるようになる。そして、2007年に二度目のホームラン王を獲得、史上2人目の40代で100本塁打(通算では403本塁打)を記録するなど、再び花開いたのは周知の通り。
まさに山?武司は“血”と“知”の野球遺伝子を受け継ぎ、見事に体現した選手なのである。
【球界を代表する名脇役 桧山進次郎】
平安高校から東洋大学を経て1991年ドラフト4位で阪神に入団した桧山。入団当時の阪神は毎年のようにBクラスが定位置のお荷物球団だった。
そんな中、1999年に野村監督が就任した3年間が桧山にとって大きな転機になる。それまでは強打者のイメージが強かった桧山だが、野村監督によってアベレージヒッターの素質を見い出され、2001年には当時球団史上最多の28試合連続安打を放ち、打率3割をマークするなど、見事に開花する。また野村監督の下で一時期経験した代打というポジションがその後の桧山の代名詞になっていく。
そして2002年。星野氏が阪神の監督に就任。星野監督は選手会長である桧山に発破をかけ、優勝争いという大仕事を担う中心選手に育てていく。それは桧山が、2003年にFA移籍した金本知憲や当時4番を張っていた濱中治を生かしながら、チーム全体を支える名脇役になりきれる素質を備えていたからではないだろうか。その証拠に同年、阪神は開幕から快進撃を続け、見事な18年ぶりのリーグ優勝を縁の下の力持ちとして支えた。
その後、代打という役柄に変わったが、その活躍はファンならずとも記憶に新しいだろう。野村監督の“知”と星野監督の“血”を掛け合わせ一打席で爆発させる集中力に転化させたのだ。