file#012 梅津智弘(投手・広島)の場合
◎2002年秋、神宮第二球場で淡々と投げる姿を見る
ここ数年は不本意な成績となっているが、191センチの長身サイドスローとして一時は広島のセットアッパーを担った梅津智弘(広島)。私が最初に球場で見たのは2002年の9月のこと。東都大学リーグ2部の試合を見に行ったときのことだった。
当時、まだ國學院大2年で2戦目に先発していた梅津のピッチングフォームは、正直異様だった。大男の多いプロの世界であるからこそ今はあまり違和感がないが、191センチの長身でサイドスローというのは、あまりに不自然だった。
國學院大といえば、日本を代表するサブマリンの渡辺俊介(ロッテ)の出身校。だが、この梅津にはその面影はまったくない。
今回掲載した連続写真をご覧頂ければわかると思う。まず、左足を上げたあと、ギッタンバッコンと腰を折るが、アンダースローのように深く沈みたくても足が長くてあまり沈めない。そのせいか、下半身を投げる方向に送るような動作はほとんど使わず、その場で軸回転に切り替えてサイドから投げるようなフォームだった。今になって無理矢理言葉で示すなら「なんちゃってアンダー、結果サイド」と言うべきか。アンダースローに必要と言われている下半身がほとんど使えていないため、ユルユルのゴム人形のような感じでフォームにまったく力感が無かったのを強く覚えている。
ただ、ホームベースの両端に投げ分けるコントロールは確かで、指先感覚はいいものを持っているようだった。また、下半身の送りが弱くても、腰から上の上半身がホームベース方向に前のめりになり、さらに長い腕が一番伸びきったところでリリースされるため、ものすごく前でボールをリリースしていた。これはすごい武器になっているなとは感じた。打者目線からすると、体全体が迫ってくるような威圧感はないものの、腕が「ビヨーン」と伸びてきて、自分により近いところまで来てからボールが指から離れるイメージではないだろうか。だから、球は軽そうに見えるものの、球速にないタイミングのとりにくさがあり、バッターはとらえたと思っても、やや差し込まれる形でバックネットへのファウルが多くなっていた。
そして、もうひとつ感心したのは、本来、苦手にしてもおかしくない左バッターに対し、懐にもしっかり腕を振って投げていたことだ。この手のタイプには、実はそれほどコントロールが良くないピッチャーもいて、とにかくボールを低めに集めてゴロを打たせることに専念する者もいるが、梅津はしっかりしたコントロールを持っていて、決して逃げ腰一辺倒ではなく、突くべきときはズバッと突いていた。
とはいえ、やはり頭の中では「でも、このフォームはどうなの?」という考えが離れなかったのは事実である。正直、これはアンダースローの失敗例だな、とすら思った。もちろん、将来プロ入りするということは、とても見抜けなかった。
ところが、その約1カ月後にビックニュースが舞い降りてきた。
〈國學院大梅津投手、東都大学2部リーグ拓殖大戦で完全試合達成〉
最初にそれを知った時には「ええ〜!?」である。もちろん、梅津にとっても、ここで注目を浴びたことは、後々への大きなターニングポイントになったことだろう。
◎2003年秋の入替戦でたくましくなった姿に驚く
次に梅津を身近に見たのは、翌年秋の1部2部入替戦のときだった。3年になった梅津は、初戦の先発を任される立場となり、秋には大車輪の活躍で2部リーグ優勝の立役者となっていた。
入替戦で久しぶりに見た梅津は、結論から言うと大きく成長していた。まず、肩幅が前よりもかなりイカつくなっている。実際のスペックとしては、大学生選手が1年やそこらでそう劇的に変わることなどないのだろうが、そう見えるのだから仕方がない。少なくとも、昨年のヒョロヒョロとした梅津はもうそこにはいなかった。
投球フォームも大変力強くなっていた。以前は、前述したとおり上半身が倒れないように支えるので精一杯であった下半身が、地に根を下ろしたように安定していた。投球フォームのメカニズムはさほど変わっていないのにそう見えるのだから不思議である。しかも、球速的には130キロ後半が中心ながら、そんな数字のことなんて正直どうでもいいと思えるほど、以前とは別人のように力のあるボールを投げていた。
ただ、残念なことに、第1戦、第3戦で先発した梅津はともに敗戦投手となり、國學院大の1部昇格はならなかった。結局、梅津は大学4年間を神宮第二球場で過ごすことになるわけだが、完全試合に続き、この入替戦で多くの人間にピッチングを披露したことが、プロ入りに大きく近づいたのは間違いないだろう。
余談になるが、このときの國學院大は、同期に伊藤義弘(現ロッテ)もいた。リーグ戦ではリリーフの手駒の一つにすぎなかった伊藤だが、この入替戦では松田宣浩(現ソフトバンク)、川本良平(現ヤクルト)ら、タレント揃いの亜細亜大を相手に第2戦で完投勝利を挙げるなど全試合に登板。一躍株を上げている。通常よりいい数字が出ると言われる神宮球場でのスピードガン表示とはいえ、150キロ台を連発する伊藤のストレートは確かにうなりをあげるような豪速球であった。
◎広島での活躍ぶりと復活への期待
大学4年となった翌04年も2部ながら安定した成績を収めた梅津を、やはりスカウトはしっかり見ていたようで、秋のドラフトでは広島東洋カープが6巡目で指名。梅津はプロ入りを果たした。そして、ルーキーの05年から1軍に定着すると、広島のリリーフパターンに完全に組み込まれる存在となり、08年には64試合に登板した。
ここまで活躍しているのであれば、ぜひ一度取材したいと思い、以前勤めていた野球雑誌の企画でその機会を伺っていたところ、「最優秀助演選手賞」という12球団の縁の下の力持ち的選手を誌面上で表彰するオフの恒例企画で、梅津の名がノミネート選手として挙がってきた。
私は、過去にも何度か発動している担当編集者の「強権」を発動…というほど強引ではなかったが、担当ライターの長谷川晶一氏やノミネート選手選定のデータ分析を依頼しているデータスタジアムの担当者に熱い想いで梅津を推薦。実際、条件としても十分ということで、彼の大賞が決まり取材の運びとなった。
取材に行ったときの梅津は練習後の私服姿で、グラウンドで見るときよりずっと華奢に見えたのが印象に残っている。とはいえ、マウンドの方がたくましく見えるというのは、ピッチャーとしては悪いことではないだろう。
実は、「最優秀助演選手賞」には、ひとつだけ不穏なジンクスが存在していた。インタビューを受けた選手は翌年低迷し、時には引退に追い込まれることが多かったのだ。
もちろん、この企画の目的である「縁の下の力持ち」的な選手となれば、どうしてもいぶし銀のベテランになることが多い。年齢的にも引退が近い選手が、もうひと花咲かせるような活躍をしたときが候補になりやすいので、ある種合点はいく。
しかし、企画する側としてはやはりそういった印象を読者や選手には与えたくない、という思いは当然強い。この年、若い梅津を大賞に選んだのも、そういった側面が存在していた。だからこそ、その後の梅津の成績が低迷してしまうと、冗談では済まされない責任を勝手に感じてしまう。
その意味においても、梅津には来年こそ復活してもらうことを願って止まない。もちろん、10年以上前からそのピッチングを見ている者として、このまま終わってほしくないという想いも強い。それが現実になれば、昨今、少しずつ期待が高まっている広島の1991年以来の優勝が近づくに違いない。
※次回更新は12月25日(火)になります。
文=キビタキビオ/野球のプレーをストップウオッチで測る記事を野球雑誌にて連載つつ編集担当としても活躍。2012年4月からはフリーランスに。現在は『野球太郎』を軸足に活躍中。