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これさえ読めば“ドラフト博士”になれる!ドラフト会議50年おもしろエピソード!

 現在では日本プロ野球界に欠かせないものとなり、プロアマ問わず日本中の野球チーム、そして野球ファンからも大いに注目を集める「一大イベント」として定着しているプロ野球新人選択会議、通称「ドラフト会議」。

 1965年11月17日、東京・日比谷にある日生会館7階の特別会議室で初めて行われた第1回目から、記念すべき50回目を迎える今年のドラフト会議。そこで『週刊野球太郎』では、これまでのドラフトで起きたおもしろエピソードを5週にわけてお届け。第1回目は1965年から70年代前半のエピソードを紹介しよう。



[1964年・ドラフト前夜]
◎高騰する契約金を何とかしないと……

 ドラフト会議という初めての試みが発案されたのは、第1回会議が開催される約1年前。1964年10月2日、12球団の代表者が集まって行われる「第7回実行委員会」で、議題として「契約金高騰抑制に関する件」が話し合われたのが発端である。

 ドラフト制度が導入される以前は、新人選手の入団について明確なルールがなく、高い契約金を払う球団に有望選手は集結。当然、資金力豊富な球団に“逸材"は集まり、戦力の均等化は夢のまた夢。同時に金満球団にとっても、青天井のままの契約金を抑制しなければ、今後は立ち行かなくなるという懸念もあり、12球団が足並みを揃えて会議は進行していった。

◎「球界の信号機」として発案されたドラフト会議

 原案となったのが、西鉄の西亦次郎代表が提案した「新人プール案」という意見だった。これはわかりやすく言うと、プロ入り希望者たちを一旦、ひとつの窓口にプールして、抽選で所属球団を決めようというもの。つまり「日本プロ野球機構」で新入団選手をとりまとめ、その上で巨人や阪神など、選手たちの配属先を決めていくという考え方だった。

 このアイデアに各球団は賛同。当時、コミッショナー代行を務めていた鈴木龍二氏は「こんどの新規定は過当競争を排し、混乱と浪費を予防しようとするもので、いわば“球界の信号機”の役割を受け持つものです」と宣言している。こうしてドラフト制度はそのルールを固めていった。

[1965年・第1回]
◎最初はじゃんけん? 第1回ドラフトの顛末とは

 この原案を基に、約1年間の歳月を経て細かいルールを整備。ついに1965年11月17日、第1回のドラフト会議は開催された。会場には100人近い報道陣が詰めかけ、異様な熱気に包まれ、午前10時、いよいよ会議はスタート。まずは両リーグの間でウエーバー方式の優先権を決めるため、この年の最下位球団であった産経と近鉄の代表者によるじゃんけん、そしてくじ引きが行われ、記念すべき最初のドラフト会議はパ・リーグ優先で進められることになったという。その後、100人近い報道陣は会場から閉め出され、12球団が事前に提出していた「指名リスト」が関係者に配布され、「第一次選択」がスタートした。

  ◎第1回の1位指名重複選手はわずか2人!?

 ここで第1回ドラフト会議の概要を説明しよう。各球団は会議の7日前までに獲得を希望する新人選手の名簿を作成し、なかでも最も獲得を希望する選手を1位から12位まで、順位をつけてコミッショナー事務局に提出するルールになっていた。

 この「指名リスト」を元に、ドラフト会議は進行。リスト上で希望順位1位をつけた選手が重複していた場合、該当球団同士で抽選が行われる。もし抽選に外れた球団は、希望順位2位の選手を選択。これも重複していた場合は、再び抽選が行われる……と、現在のドラフト方式とほぼ同じスタイルであった。今と同じく、1位指名は誰なのか? 重複した場合はどうやって抽選されるのか? という点に注目が集まり、配布されたリストを目にした関係者は真っ先に1位指名選手を確認。結果、1位指名選手の重複はわずか2選手だけだったという。

 これは第1回ドラフトということもあり、各球団とも現在のような「指名のコツ」が解らなかったのが原因のようだ。自分の球団の1位指名選手が他球団と重複しないように、慎重にドラフトを進めるのか、もしくは他球団が指名しないであろう選手を1位とするのか、各球団の思惑は様々で、以前の自由競争時代には考える必要のなかった「ドラフト戦略」が、ここから発展していったのだ。

 こうして第1回ドラフト会議は、大きな混乱もなく進行。「指名リスト」に記載されていた134名のうち、131名が指名された。後に大活躍する選手を挙げると、317勝を記録した鈴木啓示(育英高)が近鉄の2位、藤田平(市和歌山商高)が阪神の2位で指名されている。巨人から1位指名を受けた堀内恒夫は、東映から2位、近鉄から3位、大洋から4位の欄に、名前が記載されていたという。

[1968年・第3回]
◎空前絶後の大豊作!

 第2回以降は、スムーズに進められたドラフト会議。やはり、第1回目の開催に漕ぎ着けた関係者の苦労と努力には、改めて拍手を贈りたい。こうして新入団選手の契約金高騰は抑えられ、各球団とも徐々にであはるが、戦力の均等化が進んでいった。

 特に有名なのが、1968年の第3回ドラフト会議だ。この年に指名された多くの選手がプロで大活躍、「ドラフト大豊作」の年であったと今でも語り草になっている。例を挙げれば、広島1位がミスター赤ヘル・山本浩司(入団後、浩二に改名)、阪神1位は田淵幸一で、中日1位は星野仙一、東京(1969年シーズン前にロッテオリオンズとなる)1位は有藤道世、西鉄1位は東尾脩ら、錚々たるメンバーが指名を受けている。他にも大橋譲(東映1位)、加藤秀司(阪急2位)、大島康徳(中日3位)、福本豊(阪急7位)……と、両リーグに有望選手が散らばり、1970年代から80年代にかけて活躍した名プレーヤーが、続々とプロ野球の門を叩いたのだった。

◎1968年からあのパンチョ伊東氏が司会に!

 この大豊作の年から24年間に渡り、ドラフトの司会進行役を務めたのが、名物司会者として今も語り継がれる故・伊東一雄氏、通称・パンチョ伊東である。

 「第一回選択希望選手、読売……」という独特の声質が、今でも耳に残っているファンも多いはず。1959年、パ・リーグ初代会長に就任した中沢不二雄氏に請われて事務局入り。会長のカバン持ちから始まり、1976年には広報部長に昇格。人気のセに対抗して、「実力のパ」をアピールし、指名打者制の導入や日曜日のデーゲームなど、様々なアイデアでパ・リーグを盛り上げた。

 一方では大のメジャーリーグ通としても有名で、アメリカ野球の豊富な知識を活かして日米野球の橋渡し役も務めたパンチョ伊東氏。あだ名の由来は、元大リーガーで阪急でも活躍した強打者のダリル・スペンサーが名付け親だという。

 こうして様々な人物に支えられながら、その歴史を刻んできたドラフト会議。来週以降も、いろいろなエピソードを紹介していくので、お楽しみに!


■ライター・プロフィール
鈴木雷人(すずき・らいと)/会社勤めの傍ら、大好きな野球を中心とした雑食系物書きとして活動中。自他共に認める「太鼓持ちライター」であり、千葉ロッテファンでもある。Twitterは@suzukiwrite

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