雑誌『野球太郎』の連載でも御馴染み「伝説のプロ野球選手に会いに行く」の「週刊版」。現在、文庫版“伝プロ”も絶賛発売中!
このところ、昭和20年代のプロ野球の歴史をいろいろと調べています。とあるトークイベントに出席して、その時代に活躍した野球人について、語らせてもらうことになったからです。
最初に「昭和20年代」と聞いたとき、正直に言って、一瞬、戸惑いました。この時代に興味を持つ方はどれぐらいいるのだろう、あまりいないのでは? と心配になったのです。
それでも、よくよく考えてみると、太平洋戦争の影響で公式戦中断に追い込まれたのが昭和19年秋。昭和20年代は日本プロ野球が復活し、復興していく時代でしたから、今のファンも興味深いはずの出来事がたくさんある。
たとえば、初のナイターが昭和23年に開催されていたり、セ・リーグとパ・リーグに分裂したのは24年だったり、プロ野球のテレビ中継が始まったのは28年だったり。
戦前の野球界にはなかったものが次々に生まれ、その後の繁栄につながっていく時代だったのですが、今回は復活のときに焦点を合わせたいと思います。
プロ野球の復活といえば、ずっと忘れられない野球人の言葉があります。日本で初めてシーズン50本塁打を超えたスラッガー、小鶴誠さん(元名古屋ほか)。2001年に会いに行ったときにこう言っていました。
「海南島で終戦になったんですよ、中国の。それからすぐ、『もうプロ野球が始まるよー』って、ニュースが入ってくる。でも、僕はすぐには還れなかったから、少しは練習しとかなくちゃと思ってね。軟式のボール使って、部隊の連中と一緒に野球やってた。こっちはもう、プロだからっていうんで、コーチというか監督兼任ですよ」
小鶴さんの「始まるよー」という呼びかけは、なにか復活宣言のように聞こえてとても印象に残っています。しかしそれとは別に驚かされるのは、戦地で、軍隊のなかで野球をやっていたという事実。
「暑いからね、海南島なんて。向こうで体つくって、だいぶ鍛えてね。十分に練習できたんです。だから、復員して、還ってきてね、すぐリーグ戦に入れたの」
僕はこの話を聞いて、2月でも温暖な気候の下で行われる海外キャンプを思い出しました。そこで、今思えば不謹慎なのですが、「まるでキャンプ地ですね、海外の」と言うと、小鶴さんは一瞬、間を置いて苦笑しながら言ったのでした。
「そうだよ、海南島でキャンプをやってたようなもんだ。もう、ガンガンガンガン走ったりなんかしてたよ。若かったからね」
それにしても、軍隊で野球をやっていたということは、あらかじめ野球用具がそろえられていたわけです。
戦時下の日本国内では、「アメリカ生まれの敵性競技」ということで野球は弾圧されていたのに、軍隊では続けられていたとは矛盾のような気もします。
僕は、そのあたりの背景は小鶴さんに聞けずじまいでしたが、しかしいつ命を落とすかわからない戦地において、レクリエーションのひとつとして野球が必要だった、と考えることもできます。また、この話は、小鶴さんが生きて帰ったからこそ、われわれの知るところとなったのです。
さて、小鶴さんが「すぐに入れた」というリーグ戦の再開は昭和21年。巨人、阪神、中部日本、パシフィック、セネタース、阪急、近畿、ゴールドスターという8球団でスタートしました。(小鶴さんは中部日本に在籍)
もっとも、実は前年には、まさにプロ野球復活をアピールする試合が行われています。
昭和20年、8月15日の終戦から、わずか3カ月後のことでした。
(次回につづく)