雑誌『野球太郎』の連載でも御馴染み「伝説のプロ野球選手に会いに行く」の「週刊版」。現在、文庫版“伝プロ”も絶賛発売中!
今のプロ野球選手が見事な記録を作り、昔の選手を引っ張りだす――。スポーツ新聞の紙面でよく見られる光景ですが、今年4月、DeNAのブランコが月間14本塁打を記録したとき、こんな見出しが載っていました。
<ブラ 球団新 「じゃじゃ馬」青田昇の13本を59年ぶり抜いた>
これまで月間本塁打の球団記録は青田昇さんの13本だったところ、ブランコが記録を更新したというわけです。
念のため、球団記録について説明しておきますと、当然ながら、現在のDeNAと59年前当時では球団の名称が違います。
DeNAの前身は横浜ベイスターズ、その前は大洋ホエールズ(松竹と合併した1953〜54年は洋松ロビンス)。身売りによって親会社が変遷、チーム名も変わりましたが、創設以来の球団史は続いています。
したがって、洋松時代の1954(昭和29)年に作られた青田さんの記録が、DeNAのブランコによって塗り替えられたことになるのです。
さて、記事の中で青田さんはこう紹介されています。
<「じゃじゃ馬」の愛称で、5度の本塁打王に輝いた名スラッガー>
1954年はシーズン31本で3度目の本塁打王。同年を含め、洋松・大洋時代には計3度もキングになった青田さんですが、もともとは戦前から巨人で活躍した俊足・強肩・強打の外野手でした。
青田さんは1943(昭和18)年、巨人入団2年目にして打点王に輝き、戦後は阪急(現オリックス)で2年間プレーした後、48(昭和23)年に巨人復帰。同年に自身初の本塁打王を獲得すると、翌年から3年連続100打点以上をマークして、51年には本塁打と打点の二冠。
足もある右打ちのスラッガー。今の球界ではまず見当たりませんが、強いて挙げれば、ソフトバンクの松田宣浩のようなタイプでしょうか。
しかし明らかな違いは、松田が180cm87kgという体格なのに対し、青田さんは170cm未満で69kgだったという事実。それほど小柄な体で5度の本塁打王とは、驚くばかりです。
実は僕自身、真っ先に会いに行きたい「伝説のプロ野球選手」が青田さんでした。往年の名選手23名を紹介した著書『サムライたちのプロ野球』を読み、テレビのスポーツニュース番組で解説者として野球を論じる姿に興味を持ち、「まずはこの人に会いに行こう」と決めていました。
しかし当時、1996年頃はまだ取材して記事にできる場もなく、単なる願望に過ぎなかったのですが、残念ながら、青田さんは97年11月にお亡くなりになってしいました。結局、会いに行くことはできなかったのです。
それでも、野球雑誌で「伝説のプロ野球選手に会いに行く」の連載を始めた頃から、青田さんと関わりのあったメディア関係者の方と知り合い、思い出話を聞くことができました。
そのうちの一人、[記録の神様]と呼ばれた宇佐美徹也氏(故人)には、打者としての特徴をうかがいましたが、印象的だったのはこの言葉です。
「大下と同様に、『天才』と言っていいんじゃないかな。世間がホームランを求めている、じゃあ、今までのバッティングではダメだということで、すっと打法を変えてしまったわけです。それで、変えた途端に打てるというのは天才ですよ」
「大下」とは、戦後のプロ野球に突如出現したスター、大下弘(元セネタースほか)。戦前はプロ経験がなく、在籍した明治大でも試合出場は皆無に等しかった選手。まして軍隊生活を経ているにも関わらず、終戦後、大学に戻った途端に練習で長打力を発揮して、秋には新球団のセネタースにスカウトされてプロ入り。
そんな大下のデビュー戦となったのが、前回までお伝えしてきた復活の東西対抗です。
実力はまったくの未知数ながら、東軍の中軸打者に抜擢された大下。神宮に始まって桐生、西宮で行われた全4試合に出場して、通算の打撃成績は15打数8安打12打点。8安打の中身は二塁打2本、三塁打1本、本塁打1本と猛打を振るっています。
確かに本人は打撃練習をしていた、反対にプロの投手は練習不足だったとはいえ、いきなり上のレベルでそれだけの結果。やはり「天才」を感じずにいられません。
次回は、この二人の天才打者を中心に、「世間がホームランを求めた」時代を見ていきたいと思います。