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高校球児も仰天!甲子園球場誕生秘話

 昨年、開場90周年のメモリアルイヤーで沸いた甲子園球場。時代背景も技術力も今とは異なる時代に、いかにしてあのマンモス球場は作られたのか? その誕生秘話を紐解いてみよう。


【工期はたったの5カ月弱】

 最近何かと話題の新国立競技場問題。一番の問題は5年後の五輪までに工事が終わるのかどうか、という点だ。ところが、大正時代の日本では、当時誰も見たことがなかった巨大球場の建設が信じられないスピードで着工・建築された。

 その巨大球場とは阪神甲子園球場。それまで使用していた鳴尾球場は5000人しか収容できず、溢れ出した観客がグラウンドになだれこんでしまう事態に発展したため、収容人員約6万人の超巨大球場の建設を決定。1924年3月11日に起工し、同年7月31日に工事は完了した。

 この間、わずか5カ月弱。8月には「第10回全国中等学校野球大会」を開催することが決定事項だったため、この工期は至上命令。「梅雨もあるからこんな短い工期では無理だ」とどの業者も尻込みする中、手を上げたのが大林組だった。

 ショベルカーもダンプカーもない時代、大林組は牛にローラーを引かせて建設を進めた。また、建設場所が河川敷だったことで、コンクリートに混ぜる砂が現地調達できたことも工事のスピードアップに貢献。天候にも恵まれたことで無事、開場にこぎ着けたのだ。

【社員がスライディングしてチェック!? 頭を悩ませた土問題】

 球場建設時、最も頭を悩ませたのがグラウンドの土だった。もともと甲子園球場付近の土は白いため、太陽の光に反射してプレーに影響が出ることが懸念された。また、観衆も目が疲れるという理由でこの白土をそのまま使用することは却下され、淡路島の赤土と神戸の熊内の黒土を混ぜ合わせた“ブレンド土”を使用することになった。

 この土代だけで当時の金額で5〜6万円も掛かったという。甲子園付近の土が1.8平方メートルあたり2円だったが、淡路島の赤土などは運搬料含めて25倍の50円も掛かった。さらにその土を混ぜ合わせる調合の研究も行われ、阪神電鉄の石川真良という人物は毎日、ユニフォームに着替えて実際にグラウンドに滑り込むなどして、調合率を調整したという話が残っている。

【女性ファンを開拓した、球場のある仕掛け】

 野球のために建設された球場ではあるものの、計画段階から野球以外にも使用することが念頭に置かれていた。特に、外野を使ってラグビーもできるように設計されたため、両翼110メートル、中堅119メートルで、左中間・右中間までは125メートル。外野フェンスがほぼ一直線という変則的な形の球場だった。

 また、「天候に関係なく開催されるラグビーを雨中でも観戦できるように」と、バックネット裏と内野席には鉄傘が設置された(のちにアルプススタンドにも延長)。この鉄傘によって、日焼けを気にすることなく野球観戦ができると、女性客を呼び込む副産物が生まれた。

【開幕には間に合わなかったスコアボード】

 なんとか開場にこぎつけた甲子園球場だったが、スコアボードだけは間に合わせることができなかった。そのため、球場開場の1年後、1925年に木製の初代スコアボードが誕生した。

 その後、1934年にコンクリート製の2代目スコアボードが完成。そして、球場誕生から60年がたった1984年、スコアボードは3代目の電光掲示板式にリニューアルされた。

 この3代目は、機能性以上に形や色合いなどにも工夫が施された。球場の雰囲気を大きく変えないため、50年間使用した2代目に似せて設計されたからだ。電光掲示板で表示するフォントも、それまで職人が手書きしていた文字に似せてデザインされたこだわりようだった。

 甲子園球場全体は2007年から2009年にかけてリニューアル工事が施された。その際に伝統の「甲子園の蔦」が取り除かれたが、数年後には元の姿に戻るよう、植栽されている。このように。歴史を大事にするのが甲子園球場の特徴のひとつ。スコアボードはその後も表示方式がLEDに変わるなど時代とともに改良は重ねられているが、その佇まいは今も大きく変わらず、今年も球児たちを出迎えてくれる。

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