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第8回 「“自由契約”から這い上がった選手」名鑑(投手編)

 「野球なんでも名鑑」は、これまで活躍してきた全てのプロ野球選手、アマチュア野球選手たちを、さまざまな切り口のテーマで分類し、テーマごとの名鑑をつくる企画です。
 毎週、各種記録やプレースタイル、記憶に残る活躍や、驚くべく逸話……などなど、さまざまな“くくり”で選手をピックアップしていきます。第8回のテーマは、「“自由契約”から這い上がった」選手の名鑑(投手編)です。

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 11月9日と21日に12球団合同トライアウトが行われました。2001年から導入されたこの制度は、テレビのドキュメント番組で紹介されたこともあり、ファンの注目度は年々上昇。戦力外通告を受け、自由契約となった選手たちの再起をかけた挑戦は、オフ定番の話題になりつつあります。
 注目は浴びるようになっても、再びユニフォームを着られる選手が限られている状況は変わりません。ましてやその後、もうひと花咲かせられる選手となると本当にひと握り。ほとんど奇跡的といっていいでしょう。今回はそんな奇跡を起こしてきた選手たちのうち「投手」に絞ってまとめます。

遠山奬志(阪神-ロッテ-阪神)

 あの清原和博の「はずれ」ながら、阪神から指名を受けた遠山。高卒1年目は24試合に先発し8勝。打線に助けられた部分もあったが、上々のルーキーイヤーを過ごした。しかし、2年目以降はケガに泣かされ、先発ローテーションに入ることはキャリアを通じてなかった。89年にはベテラン・高橋慶彦とのトレードでロッテに移籍するが調子は上がらず、95年に打者転向する。しかし状況は好転せず97年オフに自由契約に。このとき遠山は30歳だった。
 しかし、吉田義男監督が率いていた阪神が当初、入団テストを受けた打者としてではなく、「投手として」救いの手を差しのべる。そして、野村克也新監督が就任した99年に遠山は豹変する。遠山はロッテ時代にサイドスローに一度挑戦していたが、当時ロッテの監督だった八木沢荘六が阪神のピッチングコーチになった経緯もあり、再びサイドスローに挑戦。さらに野村監督の指示でシュートを投じることで左打者相手のワンポイントというポジションを得る。特に松井秀喜(当時巨人)を13打数無安打に抑えるなどして、阪神版“野村再生工場”の看板となる。同じリリーフ投手である葛西稔と互いに一塁を守りながら交互に登板する奇策も話題になった。遠山は3年間にわたりワンポイントの役割を務めたが、02年オフには大補強を行った星野仙一監督より戦力外通告を受け引退した。松井と通算対戦成績は39打数10安打9奪三振。引退後は05〜11年まで阪神でコーチを務めている。現在は解説者。

[遠山奬志・チャート解説]

 2年目以降活躍はなし。特に20代の10年間で4勝。さらに打者転向を試みるも1軍ではわずか3安打…と暗中模索が続いていた。低迷度は5。3シーズンもの間、野手としてプレーしていたにもかかわらず、1シーズンのインターバルで安定感のあるワンポイントリリーフとして再生。松井秀喜という華のある好敵手にも恵まれ、大きな注目を浴びた。豹変度は5。85年の阪神優勝の後に入団し、2003年の直前に引退。現役時代は見事にチームの優勝には立ち会えていない。貢献度は3。

チャートは、自由契約になった際のどれだけどん底状態にあったかの「低迷度」、自由契約を経ての復活劇に際しての「豹変度」、その活躍がチームの好成績に果たした「貢献度」を5段階評価したもの(以下同)。


河原純一(巨人-西武-中日-愛媛/四国IL)

 駒澤大時代は東都大学野球で23勝、防御率1.66。258奪三振などの素晴らしい成績を残した河原。日米大学野球では3度日本代表に選ばれてもいる。大学で抜群の実績を残した河原は巨人を逆指名し、94年のドラフトで1位指名を受け入団する。1年目はケガで離脱した桑田真澄の穴を埋める形でローテーション入りし8勝。完封も3度演じてみせた。
 しかし、その後は思うように勝てず苦しんだ。ヒジの故障が判明し98年には手術を行った。コンディションを取り戻した02年にはクローザーを務め28セーブを記録し、チームの日本一に貢献した。しかし、その後2年は再び調子を落とし、04年オフに西武にトレード。移籍1年目の05年は先発として19試合を任されるもわずかに2勝。防御率は5.38と期待を裏切った。さらにシーズン終盤、ヒザにケガを負い手術。その後まともに登板はできず、07年オフに自由契約を通告された。このとき河原は35歳。年齢的な問題もあり、オフに受けた12球団合同トライアウトでも獲得球団は現れなかった。
 だが河原の心は折れなかった。駒大の施設でトレーニングを続け、ヒザのケガを直し、1年間の浪人生活を経て、08年オフに中日の入団テストを受験。これに見事合格し、もう一度ユニフォームに袖を通す。そして09年は44試合に登板し防御率1.85。15ホールドを挙げる活躍。中日のクライマックスシリーズ進出に貢献した。翌10年はコンディションを落とすもポストシーズンに活躍。11年は30試合に登板し一定の投球を見せたが、優れた若手リリーフを多く抱えるチーム事情もあり戦力外通告を受ける。2度目のトライアウトを受けるもNPBとの契約はできなかった。しかし、一度泥水を飲んだエリートはタフだ。現在は四国アイランドリーグplusの愛媛マンダリンパイレーツでプレーしながら、NPB復帰を目指している。

[河原純一・チャート解説]

 とにかくコンスタントに活躍することができず苦しんだ。巨人で28セーブを挙げた02年以降の03〜07年は2勝17敗。防御率6.19。低迷度は4。その後1年間の浪人を経て復活。三振の数は減ったが被安打、与四球は抑える投球は全盛期に近いものだった。豹変度も4。中日では09年はクライマックスシリーズ出場に、10年はポストシーズンで活躍し日本一に貢献している。貢献度は5。


伊藤敦規(阪急-オリックス-横浜-阪神)

 87年のドラフトでは、武田一浩を指名し抽選ではずした阪急から1位指名。下手投げだったことから「山田久志2世」とも呼ばれた。最初は主に中継ぎを務めたが、徐々に先発も任されるようになる。5年目はローテに加わり8勝するなど、入団から5年間で27勝を挙げるまずまずの活躍を見せた。しかし30代に差しかかった93年から成績が悪化。登板機会を減らし94年オフに横浜へトレードされる。移籍後2年間も登板は23試合のみで1勝2敗。防御率は6.58と不振が続いた。そしてついに96年オフ、33歳だった伊藤は自由契約を言い渡される。
 現役続行を望んだ伊藤は「ファンだった」という阪神の入団テストを受験し、これに合格する。すると豹変した伊藤は翌97年より抜群の安定感を見せ始める。5年続けて50試合以上登板するフル回転で低迷期の阪神を支える存在となった。一度は契約を打ち切られた男の年俸は8000万円までアップした。しかし遠山同様、登板過多は明らかで02年にヒジを故障。同年限りで引退した。その後は実家の家業を手伝った後、解説者を経て05年にコーチとして現場復帰。00年代の阪神の強みとなった中継ぎ陣の育成で手腕を発揮した。

[伊藤敦規・チャート解説]

 33歳という年齢を考えれば想定できる成績の落ち込み。低迷度は4。その後は比較的なだらかな成績の改善ともいえるが、対戦相手の大きく変わらない同一リーグ内での移籍であることを考えるとやはり“豹変”というべき変化。豹変度は4。遠山同様03年の優勝まではプレーできなかった。貢献度は3。ただし、指導者として強い阪神の基盤を築いた1人であることは間違いない。


その他の「“自由契約”から這い上がった」選手

加藤伸一(南海-ダイエー-広島-オリックス-近鉄)
 1983年ドラフト1位で南海に入団。ケガとつきあいながら、また決して強くはなかったチームで48勝を挙げたが、30歳となった95年オフに自由契約に。だが広島と契約を交わすと9勝し、カムバック賞を獲得する。3年間で18勝を挙げたが、また自由契約に。そんな加藤を今度はオリックスが獲得。加藤は期待に応え3年間で20勝を挙げた。低3/豹4/貢3

西村龍次(ヤクルト-近鉄-ダイエー)
 1989年ドラフト1位でヤクルトに入団。1年目から4年連続で2ケタ勝利を挙げ、ヤクルト黄金期のエースとなる。94年オフにトレードで近鉄へ移籍。しかし3年で5勝と活躍できず97年オフに自由契約になった。だがダイエーの入団テストに合格すると98年は10勝を挙げチームの久々のAクラス入りに貢献。球宴出場、カムバック賞を受賞を果たす。低3/豹4/貢4

野中徹博(阪急-オリックス-俊国(台湾・当時のチーム名)-中日-ヤクルト)
 甲子園のスターとして名を馳せ、83年ドラフト1位で阪急へ。しかし手術などもあり、ほぼ活躍できず89年オフに自由契約。現役続行の意欲は薄く、様々な仕事を点々としながら草野球チームでプレーした。93年にプロ復帰を決意し、台湾の俊国ベアーズの入団テストを受け合格。15勝を挙げる活躍を見せると、NPBからも声がかかり、翌94年は中日でのプレーが決まる。中継ぎとして21試合に登板。優勝を懸けた10・8決戦でもマウンドに上がり2回を無失点に抑えた。その後中日からも自由契約となるが97年にヤクルト入団。中継ぎとして44試合に登板する活躍を見せ、32歳にして初勝利を挙げた。低5/豹3/貢4

田畑一也(ダイエー-ヤクルト-巨人)
 田畑はプロ球団を自由契約になった経験はない。が、高校を卒業し入った実業団チーム・北陸銀行を肩と腰を痛め退部、野球をあきらめ家業を継いで大工になる、という挫折を経験している。
 働きだした22歳の田畑は、91年に「野球にケリをつけるために」でダイエーのテストを受けると、なんとこれに合格。その年のドラフトで10位指名を受け、プロ野球選手になる。その後4年間中継ぎ投手を務めたが目立った成績は残せなかった。だが、95年オフにトレードで移籍したヤクルトで覚醒。1年目に12勝、2年目に15勝を挙げる活躍を見せ優勝も経験。それからはケガの再発で活躍できなかった。現役最終年を過ごした巨人では中継ぎとして一定の戦力に。低5/豹4/貢4
また、田端一也投手は『野球太郎No.002』の「ドラフト最下位指名選手」でインタビューをしています。

入来智(近鉄-広島-近鉄-巨人-ヤクルト-斗山/韓国-LaNew/台湾)
 89年、野茂英雄や石井浩郎と同期で近鉄入り。6年間でリリーフ中心で17勝を挙げる。その後移籍を繰り返すが、99年に加入した巨人で2年間結果を残せず自由契約に。しかし、01年にヤクルトで復活。10勝を挙げ、防御率も2.85と健闘。また、チームの日本一を支えたことに加え、オールスターでは弟・祐作との兄弟投手リレーで話題も呼ぶ。その後、再び自由契約となり、韓国、台湾を転戦し現役にこだわった。だが、NPBでの活躍はこの年が最後だった。低3/豹3/貢5

小倉恒(ヤクルト-オリックス-楽天)
 クラブチーム出身選手としてヤクルトに入団。しかし4年間ほとんど働けないままオリックスへ移籍。それから4年目に中継ぎで9勝、翌年先発で10勝を挙げたが、その後成績を軌道に乗せられず04年の分配ドラフトで楽天へ。翌年中継ぎとして再起を図ったが活躍できず、35歳という年齢もあり自由契約に。小倉は合同トライアウトを受け、現役続行を探った。すると楽天の次期監督に決まっていた野村克也が小倉を評価。球団に再契約を促した。首の皮一枚つながった小倉は06年、中継ぎと抑えを行き来しながら58試合に登板。6勝7敗4セーブ15ホールド、防御率2.18と奮闘した。翌年は39試合に投げるも防御率が大幅に悪化。そのまま輝きは取り戻せず08年シーズンをもって引退。低4/豹3/貢3

木田優夫(巨人-オリックス-タイガース-オリックス-ドジャース-マリナーズ-ヤクルト-日本ハム)
 巨人在籍11年で50勝など活躍し、30歳のときにFA権を行使。メジャーリーグに挑戦する。タイガースでは1勝を挙げたが、翌年のシーズン途中でマイナーリーグ降格が決まりNPBに復帰。しかし1年半後、木田はオリックスから自由契約を言い渡された。1年浪人の後、再びメジャーの舞台に舞い戻り3シーズンを過ごしたが1勝でもきず自由契約に。 この時点で37歳。引退もささやかれたが、ヤクルトで中継ぎとして復活。09年には先発投手としての勝利も記録した。そのヤクルトも同年一杯で40歳を超えた木田を自由契約に。しかし日本ハムが手を差しのべ木田は現役続行。だが移籍3年目の今年は1試合での登板に終わり、日本ハムから自由契約とする旨発表された。4度の戦力外通告を跳ね飛ばし居場所を確保してきた木田。現在も現役続行を希望し12球団合同トライアウトなども受けた。低4/豹3/貢3

吉井理人(近鉄-ヤクルト-メッツ-ロッキーズ-エクスポズ-オリックス-ロッテ)
 近鉄、ヤクルトで活躍し、FA権を行使してメジャー挑戦した吉井。MLB通算32勝を挙げるも、03年にオリックスに復帰する。しかし2年続けて期待に応える活躍ができず自由契約となる。しかし再編問題の末に生まれたオリックス・バファローズを、近鉄時代に仕えた仰木彬監督が率いることが決まると、オリックスは吉井獲得に動く。テスト的に参加したキャンプで一定のパフォーマンスを見せた吉井は契約を勝ち取った。
 ただこの時点で吉井は39歳。活躍はむずかしいと見る向きも多かったが、吉井はその予想を裏切る。05年、06年は先発として計34試合に登板。計13勝を挙げ最後の輝きを見せた。低4/豹3/貢3

野茂英雄(近鉄-ドジャース-メッツ-ブリュワーズ-タイガース-レッドソックス-ドジャース-デビルレイズ-ロイヤルズ)
 野茂もメジャー歴が長いだけあり自由契約を数多く経験している。99年はメッツ、カブス(マイナー)を自由契約。05年にデビルレイズ、06年にホワイトソックス(マイナー)を自由契約。08年にはロイヤルズからは戦力外通告(DFA)を受け引退している。もちろんアメリカの自由契約は「現役続行の危機」をすぐに意味するものではない。だが、ブリュワーズでの復活の12勝やレッドソックスでのノーヒットノーランなどは、メッツやカブスのマイナーで不合格を突きつけられた後の偉業だ。チームを追われる度に野茂はタフさを増し、すごみをつけていったような気もする。低2/豹5/貢3


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 自由契約から這い上がってきた選手を拾い出し、並べてみました。まず気がついたのは「元ドラフト1位」が多いということです。遠山、伊藤敦、河原はもちろん、加藤伸、野中、西村―――。もちろん面子は基本的に主観で選んでいるので、何らかのバイアス(ネームバリューなど)が、こういうラインナップ招いた可能性も否めません。ただ様々な想像はできそうです。「単純にドラ1にはそれだけの可能性が秘められている」「ドラ1のプライドがどん底を支えた」といったような…。
 ただ実際にありそうだな、と感じるのは「ドラ1は、早めにプロ不適格の烙印を押されにくい」というもの。例えば遠山は20代のほとんどをどん底に近いレベルでプレーしています。スタッツ・成績だけを見ていると、チームにとって利益をほぼ生み出さない選手が、よく10年も契約を維持できたなと感じます。いくら左投手という価値があったとしても。  どん底から這い上がり、ひと花咲かせる選手を生まれるかどうかは、「来るべきときがくるまで、『淘汰されない』材料」を持っているかどうかが大事なのかもしれません。

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