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聖地・甲子園球場はたった5カ月で完成!ハイスピードで大会開幕前に間に合わせた【高校野球100年物語】

 夏の甲子園の前身である「全国中等学校優勝野球大会」の第1回が行われたのは1915年。今に連なる高校野球が始まって100年が経過したことになる。『週刊野球太郎』の特集「高校野球100年物語」では、この高校野球史を振り返り、激闘、印象的な選手、その当時の世相など重要な100の物語を紹介していく。

 6月は戦前の出来事に絞って、物語を綴っていく。

〈No.015/印象に残った勝負〉
史上唯一の統一王座決定戦。“春の王者・高松商”対“夏の王者・和歌山中”


 1927年、春のセンバツ優勝校には夏休み中のアメリカ遠征旅行が企画された。そして、この年のセンバツを制したのは大投手・小川正太郎擁する和歌山中。前年覇者の広陵中を下して、優勝とアメリカ行きを獲得した。同年夏、主力組をアメリカ遠征で欠いた和歌山中は、甲子園出場こそ果たしたものの1回戦負けだった。この夏の大会を制したのが四国代表の高松商。こちらも広陵中を決勝で下して、優勝を飾った。

「主力組が出ていれば夏も和歌山中が優勝したのでは?」

 わき起こった疑念を解消するかのように行われたのが、同年11月6日、大阪・寝屋川球場で史上初の春・夏優勝校同士の決勝試合だ。試合は序盤に猛攻を見せた高松商が小川投手相手に7点を挙げ、日本一の栄冠を獲得した。

〈No.016/泣ける話〉
甲子園開幕前日に代表校決定!? 真っ黒なユニフォームで行進に


 1938年7月、阪神地区を大雨が襲った。後に「阪神大水害」と呼ばれる、その大雨の影響は球児たちにも及んだ。本来であれば代表校が決まっていてもおかしくない8月3日に兵庫大会が開幕。決勝戦はなんと甲子園本大会の前日という綱渡りの日程だった。この年、兵庫大会を制したのは、エース・別当薫(元毎日ほか)を擁した甲陽中。決勝戦で滝川中の別所毅彦(元南海ほか)に投げ勝って全国大会出場を決めたが、その翌日からもう甲子園本大会。甲陽中ナインは正に着の身着のまま、真っ黒なユニフォームで入場行進に参加した。

〈No.017/印象に残った選手〉
中京商を3連覇に導いた伝説の男、吉田正男


 “甲子園史上最多勝男”それが中京商のエースとして、1931年〜1933年の「夏3連覇」を牽引した吉田正男だ。とにかく吉田の足跡には数々の甲子園伝説が続く。3年間で春夏6季連続出場。夏の大会は14連勝(無敗)。甲子園通算成績23勝3敗はもちろん史上最多勝だ。

 また、1932年夏、決勝戦での松山商・景浦将(元阪神)との名勝負、1933年夏、準々決勝での大正中・藤村富美男(元阪神)との投げ合い、そして準決勝では明石中相手に延長25回336球を一人で投げ抜き完封勝利……と、数々の名勝負を演じたことでも甲子園史にその名を刻んでいる。

〈No.018/印象に残った監督〉
甲子園を綴り続けた「学生野球の父」、飛田穂洲


 早稲田大学野球部初代監督であり、野球指南書『ベースボール』シリーズを上梓するなどの功績で「学生野球の父」と呼ばれた飛田穂洲(本名は飛田忠順)。「高校野球の父」と呼ばれた元高野連会長・佐伯達夫とともに、高校野球全体の「監督」的な存在として語り継がなければならない偉人だ。今でこそ、飛田が唱えた精神主義的な野球道は批判も多いが、一方で、朝日新聞記者として甲子園大会と球児たちの姿を綴り続けた実績も見逃せない。特に、勝者を讃えるだけでなく、敗者の労をねぎらう小気味いい「穂洲節」はファンが多かった。

〈No.019/知られざる球場秘話〉
1924年、遂に完成したマンモス球場「大甲子園」


 1917年の第3回大会から1923年の第9回大会まで試合会場となっていたのが、今の兵庫県西宮市にあった鳴尾球場。だが、本来は競馬場だったこともあって観客席は仮説スタンド。そのため、年々増え続ける観客に対応しきれなくなり、遂には1923年、溢れた観衆がグラウンドになだれ込んで試合が中断する事態に陥った。

 そこで阪神電鉄が主導し、1924年3月11日、新球場建設工事がスタート。わずか5カ月後の8月1日に5万人収容の新球場が誕生した。この年が、十干十二支の最初の組み合わせであり、60年に一度の縁起のいい年、「甲子(きのえね)」であることから「甲子園」と命名された。

〈No.020/時代を彩った高校〉
初代センバツ覇者。四国野球の扉を開き続けた高松商


 1924年から始まった春の選抜大会。その初代王者に輝いたのが四国代表の高松商だ。決勝戦で東の雄・早稲田実を制し、四国の地に初めて優勝旗がもたらされた。春の紫紺の優勝旗だけでなく、夏の真紅の優勝旗を四国にもたらしたのもやはり高松商。1925年の夏に、またも早稲田実を下しての優勝だった。

 1924年からの5年間で夏優勝2回、春は優勝1回、準優勝1回と無類の強さを発揮。1927年夏を制した後、秋には春の王者、和歌山中と日本一決定戦を行い勝利。史上唯一の統一王座としても、その名を球史に刻んでいる。

〈No.021/世相・人〉
ハプニング続出だった初のラジオ中継



 1927年の第13回大会から始まり、甲子園人気をさらに高めたのがラジオ中継の存在だ。ちなみにこの大会で、大会8日間の全試合を一人で実況担当したのが現在のNHK大阪放送局の魚谷忠アナウンサー。第2回大会に市岡中の三塁手として出場した元球児で、上司から「野球経験者は魚谷だけだから、一人で全部やれ」と指令が下ってしまった。

 といっても、それまで一度も野球中継の経験がなかった魚谷アナ。試行錯誤の連続で、「打ちました。大きなフライ! あっ、センター捕りよった。エライやっちゃ〜」と関西弁が飛び出したという伝説も残っている。


■ライター・プロフィール
オグマナオト/1977年生まれ、福島県出身。広告会社勤務の後、フリーライターに転身。「エキレビ!」、「AllAbout News Dig」では野球関連本やスポーツ漫画の書評などスポーツネタを中心に執筆中。『木田優夫のプロ野球選手迷鑑』(新紀元社)では構成を、『漫画・うんちくプロ野球』(メディアファクトリー新書)では監修とコラム執筆を担当している。近著に『福島のおきて』(泰文堂)。Twitterアカウントは@oguman1977(https://twitter.com/oguman1977)

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