今から10年前、2004年の暮れ、念願のプロ入りを果たしたひとりの選手にインタビューさせてもらった。ドラフト6位で指名され中日に入団したその投手は、こんな夢を語ってくれた。
「まず、1軍のマウンドに立ってみたいですし、それを目指していきたい。子どもたちに夢を与えられるようにしたいし、障害者の皆さんにも、ぜひ僕を見に来てほしいなと思います。そして、将来、野球をやってる子どもたちから、目標とされる選手になりたいです」
投手の名は、石井裕也。
生まれつき難聴の障害を持つ彼は、左耳は聞こえず、右耳には補聴器を付けてプレーする。それでも、神奈川の横浜商工高(現横浜創学館高)時代から剛球左腕として注目され、1999年、3年時の夏には神奈川大会ベスト8。社会人の三菱重工横浜入社後は補強選手として都市対抗で活躍し、プロへの道が開かれた。
マウンドに上がるとき、石井は補聴器のスイッチを切る。集中力を高めるため、あえて静かな世界に入り込む。そうして数多くの三振を奪うことから、[サイレントK]と呼ばれるようになった。神奈川県内屈指の左腕として、石井の名が知られ始めたころのことだ。
すなわち、難聴という障害も逆利用して、自身のピッチングに生かした。ゆえに本人は障害を何も気にせずに投げてきたと自覚していて、各マスコミに〈ハンデを乗り越えた〉といわれることが嫌だった。石井にとっては、聞こえないことが当たり前だったからだ。
一方、社会人時代の当初は、野球の上でコミュニケーションをとることに苦労した。サインプレーなどがうまくいかず、捕手とのやり取りもまともにできず、悩んだこともあった。故障した左肩を手術して停滞し、気持ちが弱くなった時期もあった。けれども、チームの監督をはじめ周りからのフォローに加え、家族の支えもあって、人間的にも成長してプロ入りを果たした。
あれから10年――。その間には中日から横浜(現DeNA)への移籍があり、さらに、現在の日本ハムへと活躍の場が移った[サイレントK]。まさに静かで目立たないが、大きな環境の変化もあったなかで、プロとして長く着実に歩んできた理由は何か。10年ぶり2度目のインタビューで聞いた。