広島と阪神のつながりはこの時代から?初代ミスタータイガースは広島出身!【高校野球100年物語】
夏の甲子園の前身である「全国中等学校優勝野球大会」の第1回が行われたのは1915年。今に連なる高校野球が始まって100年が経過したことになる。そこで、6月の1週目から『週刊野球太郎』では、特集「高校野球100年物語」と題し、高校野球史を振り返り、今もなお語り継がれる名試合、燦然と輝く記録を打ち立てた選手、その当時の世相など、重要な100の物語を紹介していく。
戦前の物語を綴っていくのは今回がラスト。
〈No.029/印象に残った勝負〉
センバツ初の引き分け再試合! 享栄商対浪華商
1934年のセンバツは死闘に次ぐ死闘だった。2回戦の享栄商対徳山商は、延長19回に及ぶ激闘の末、享栄商が勝利。その享栄商は、準決勝で浪華商と対戦。享栄商・近藤金光、浪華商・納家米吉の両投手の投げ合いで延長15回を終わって0−0。日没のため大会史上初の引き分けとなった。
翌日の再試合で享栄商が勝利を収めたが、敗れた近藤金光は再試合も含めると5試合60イニングスを一人で投げ抜く大会新記録を樹立。近藤はのちに「この大会には青春の思い出がいっぱい」と語っている。勝った浪華商もこの激闘で疲弊してしまったのか、翌日の決勝戦では延長戦の末、東邦商に惜敗している。
〈No.030/泣ける話〉
戦渦に泣かされた球児たちと「幻の甲子園」
1941年夏、日中戦争の戦局が深刻となり、文部省からの指令で突如大会の開催中止が決定した。地域によっては既に予選が終了し、代表校が決定している地区もあっただけに、球児たちの落胆ぶりは想像に難くない。
翌1942年になると戦局がさらに激化。春のセンバツも夏の甲子園も文部省の指令で中止となり、代わって「幻の甲子園」と称される「大日本学徒体育振興大会」が開催された。この大会を制したのが徳島商。しかしながら優勝旗はなく、文部省から表彰状が1枚渡されただけ。大会の歴史にもカウントされなかった。
1977年、海部俊樹文部大臣が徳島を訪れた際、1942年大会の存在と優勝を証明するものとして、同校に賞状と盾が贈られた。
〈No.031/印象に残った選手〉
5試合連続完封&準決・決勝ノーヒットノーラン!! 無敵の男、嶋清一
甲子園史上最強の投手は誰か? 通算最多勝(23勝)&3連覇の吉田正男(中京商)、戦後唯一の通算20勝投手・桑田真澄(PL学園)、春夏連覇の松坂大輔(横浜)や藤浪晋太郎(大阪桐蔭)……あまたいる偉人たちを差し置いても、1大会限定で見れば嶋清一(海草中)で決まりだ。
1939年の第25回選手権大会で5試合全てをシャットアウト。45イニング無失点はもちろん大会記録だ。しかも準決勝・決勝戦に至っては2試合連続ノーヒットノーランという快挙を成し遂げたのだから、「嶋の大会」と呼んでも何ら差し支えはない。そんな大投手・嶋は春夏あわせて6回も甲子園に出場しているが、通算では8勝(4敗)。いかにこの大会で神懸かっていたかを物語っている。
▲嶋清一(海草中)/
イラスト:横山英史
〈No.032/印象に残った監督〉
「外地野球」の地位向上に努めた近藤兵太郎
戦前の大会史を振り返る上で欠かせない存在が“外地”からの挑戦だ。満州と朝鮮は1921年から、台湾は1923年から大会参加が認められ、毎年、代表校を内地に派遣していた。その中で最高の成績が1931年夏、台湾代表の嘉義農林学校による準優勝だ。しかも、決勝で敗れた相手がこの大会を皮切りに3連覇することになる最強・中京商。いかに惜しい敗戦だったかの証左でもある。
そんな嘉義農林を率いたのが近藤兵太郎だ。近藤は1918年に松山商の初代・野球部監督となり、翌年には松山商を初の全国出場へと導いた名将だった。そんな近藤が台湾に赴任し、嘉義農林の監督に就任。松山商直伝のスパルタ式訓練で選手を鍛え上げた。さらには蕃人(台湾人)・漢人・日本人3民族の融和点を見つけて強豪チームへと育て上げた。彼の偉業は台湾映画『KANO』で映像化され、台湾でも多くの支持を集めている。
〈No.033/知られざる球場秘話〉
大会の歴史を伝え、戦争で姿を消した野球塔
1934年、大会20周年を記念して、朝日新聞社が甲子園球場の北東に建立したのが高さ34メートルを誇った「野球塔」だ。第一回以来の優勝校名、選手名を銅板に刻んではめこみ、栄誉を讃えた。ところが、近くに新設された鳴尾飛行場への離着陸の邪魔になるとして、太平洋戦争が始まると塔は撤去されてしまう。銅板も軍に供出され、残りの列柱も空襲で崩壊し、跡形もなくなってしまった。
その後、1958年に春のセンバツ30回を記念して毎日新聞社が二代目野球塔を建設したが、2006年の甲子園球場リニューアル工事の際に撤去。その後、2010年に高野連・朝日新聞社・毎日新聞社の3団体により3代目となる野球塔が建立されている。
〈No.034/時代を彩った高校〉
初代ミスタータイガースを生んだ広島の雄・呉港中
高校野球の歴史を追いかけていく上でやっかいなのが、校名が変わってしまうことだ。その最初の例ともいえる存在が、1934年に夏の大会を制した広島の呉港中ではないだろうか。元々の校名は大正中。1928年に野球部を創部すると、広島商や広陵中など、名門校ひしめく激戦区・広島(山陽)にあってわずか4年で甲子園初出場を果たす。翌年も甲子園に出場した大正中は、さらに翌1934年、呉港中と校名を変更して臨んだ大会で初優勝を達成した。
このときのチームの大黒柱は、後に「初代ミスタータイガース」と呼ばれる藤村富美男。決勝戦では川上哲治(元巨人)擁する熊本工を藤村が抑えて栄冠を手にした。商業学校全盛の時代だったこともあり、呉港中と藤村の活躍は大いに注目を集めた。
〈No.035/世相・人〉
センバツからはじまった日本野球の背番号
高校野球史を振り返ると「センバツ発祥」というものが意外に多い。勝利校の校旗掲揚、耳付きヘルメットなどがその代表例だ。なかでもエポックメイキングだったのが、1931年の第8回センバツ大会で始まった「背番号」だ。この2年前にニューヨーク・ヤンキースが採用したのに倣い、選手の背中に番号が縫い付けられたのだ。まだプロ野球も始まる以前の時代、日本野球において初めて背番号が正式に採用された大会として球史のその偉業を刻んでいる。
■ライター・プロフィール
オグマナオト/1977年生まれ、福島県出身。広告会社勤務の後、フリーライターに転身。「エキレビ!」、「AllAbout News Dig」では野球関連本やスポーツ漫画の書評などスポーツネタを中心に執筆中。『木田優夫のプロ野球選手迷鑑』(新紀元社)では構成を、『漫画・うんちくプロ野球』(メディアファクトリー新書)では監修とコラム執筆を担当している。近著に『福島のおきて』(泰文堂)。Twitterアカウントは@oguman1977(https://twitter.com/oguman1977)