プロ入り後、アップダウンを繰り返して成長してきた田中将大。毎年のキーポイントはココだ!
見事、MLBデビュー戦を白星で飾った田中将大。しかし、日本のプロ野球デビュー戦は散々な結果だった。田中将大の足跡を振り返るこのコーナー、第2回は日本プロ野球の7年間です。
ひみつ7:「神の子」になった1年目
2007年、田中将大プロ1年目。結果だけ見れば、11勝7敗、196三振(リーグ2位)の堂々たる成績で新人王に輝いた。だが、冒頭で述べたように、デビュー戦はソフトバンク打線を相手に1回2/3を投げて6安打1四球で6失点と、予想以上に早々とノックアウトされてしまった。ところがこの試合、交代後に味方打線が逆転し、敗戦投手にはならなかった。
この試合に限らず、田中が登板し、ノックアウトされた試合では不思議と味方打線が奮起し、なぜか田中には黒星が付かない。だからこそ、プロ野球史に残るあの名言が生まれたのだ。
《「あいつは神様にでも守られてるんちゃうか。不思議な子だよな」
われわれが計り知れない、何か運の強い星の下に生まれているのを感じた。そんなことから「マー君、神の子、不思議な子」というフレーズが口をついて出た》(野村克也著『私の教え子ベストナイン』より)
ひみつ8:ストレート重視が裏目に出た2年目
プロ2年目の2008年は夏場に北京五輪日本代表に選出され、約1カ月戦列から離れたことも響き、日本時代で唯一、2ケタ勝利に届かなかった(9勝)。だが、五輪出場以外にも2ケタ勝利を逃した要因がある。それが、スピードを追い求めたが故のフォームの乱れだ。
《田中はストレートに磨きをかけ、スピードも増した。ところが、これが若い彼にはかえって災いした。ストレートが速くなったことで、力任せに三振を狙いにいくケースが増えたのだ。結果、痛いところで一発を浴びるケースが増えた。さらに悪いことに、威力のあるストレートを投げたいという意識が強すぎてフォームを壊し、肩を故障しただけでなく、ボールのキレとコントロールも失ってしまった》(野村克也著『あぁ楽天イーグルス』より)
一方で、日本代表に「最年少」という立場で参加したことで、一流選手たちから大きな刺激を受けたのも、この年の出来事。その先輩の中の一人がダルビッシュ有(レンジャーズ)だ。その後、田中は、公私に渡ってダルビッシュから様々な影響を受けることになる。
ひみつ9:フォーム改造と怪我に悩まされた3、4年目
2009年、WBC日本代表にも選出されたプロ3年目。この年、楽天に佐藤義則投手コーチが新たに加入した。野村監督から「アイツを15勝できる投手にしてくれ」と懇願された佐藤コーチと取り組んだのが、速球を意識するあまりに開きがちだったフォームの改造であり、さらには肩に負担のかからない下半身を使ったフォーム作りだ。
まだ20歳になったばかりの血気盛んな投手にとって、フォーム改造を指導されるのは気分のいいものではないだろう。だが、ある男からのメールがその摩擦を未然に防いだ。
「厳しいけど、あの人についていけば間違いない」
メールの送り主は、自身も佐藤コーチの指導によって一流への階段を登ったダルビッシュ。信頼する兄貴分からのメールは、佐藤コーチを信じるに十分な効果を発揮した。佐藤コーチ指導による新フォームはまだ道半ばだったが、それでもこの年、野村監督が求めた「15勝」をクリア。チームも初のCS進出を果たした。
ところがプロ4年目となる翌2010年、野村監督に代わって就任したブラウン監督の方針で投げ込みが禁止され、シーズン中にケガを連発。11勝を挙げたものの、登板数も奪三振数も、日本時代における最低の数字を記録してしまう。
ひみつ10:沢村賞受賞! 名実ともに球界のエースになった5年目
2011年、プロ5年目。ブラウン監督から星野仙一監督に代わった。再び、投げ込みによるフォーム作りが功を奏したのか、「肩に負担のかからない下半身を使ったフォーム」がいよいよ完成の域に。年間を通して安定した投球ができるようになり、プロ入り初のシーズン200イニング登板を達成(226回1/3)。
最終的には19勝5敗で「最多勝利」「最優秀防御率」、「最優秀投手(勝率1位)」、「最多完封」の4冠を獲得し、沢村賞を初受賞。他にもベストナイン、ゴールデングラブ賞、最優秀バッテリー賞も獲得するなど、個人成績としては最高の結果を勝ち取った田中。震災で揺れた地元・宮城に明るい話題を提供した。
ひみつ11:公私ともに波瀾万丈だった6年目
2012年1月26日、かねてから交際していたタレントの里田まいさんとの婚約を発表すると、シーズン開幕直前の3月20日に婚姻届を提出。以前から、「早く結婚したい。子どもに自分の野球選手の姿を見てもらいたい」と語っていた通り、プロ入り6年目、23歳での早い結婚となった。
その10日後の開幕戦では、自身初となる開幕投手を務めた田中。意外なことに、田中将大が日本で開幕投手を務めたのはこの1回だけである(ちなみに、敗戦投手になっている)。
また、この年から坂本勇人(巨人)、前田健太(広島)ら1988年生まれの同級生たちと「88年会」を発足。田中自身が代表幹事として、震災復興関連のさまざまなイベントや野球教室を開催するなど、プレーだけでなく、行動面でも球界を牽引する存在になり始めたのもこの年だ。
だが、好事魔多し。前年末に起こした交通事故によって、開幕前に書類送検されたのもこの年のこと。また、自身初となるリーグ最多奪三振を記録し、防御率も2年連続1点台の1.87。完投、完封もリーグトップを記録しながら、勝ち星は10勝止まり。この年、ダルビッシュがアメリカに渡り、田中将大の独壇場になると予想されていただけに物足りなさを感じたファンも多かったはず。だが、そのフラストレーションこそが、翌年の球史に残る偉業達成の助走だったのかもしれない。
ひみつ12:世界記録24連勝! 悲願の日本一も達成した7年目
開幕24連勝。そして日本シリーズでの熱投で、楽天に球団創設初の日本一をもたらした7年目は記憶に新しいところ。ここではその背景を改めて振り返ってみたい。
「投手成績」だけでみると、2013年同様に沢村賞を獲得した2011年の方がほとんどの項目で上回っている。では「投球内容」で比較してみると、大きく変化したのが奪三振率(1試合【9回】あたりの奪三振数)とゴロの割合だ。奪三振率は2011年の9.58から2013年は7.82と大きく数字を下げている。その分、ゴロの割合が増え、2011年は全打球のうち52.2%がゴロだったが、2013年は57%まで上昇。「ゴロアウト投手」として変貌を遂げたのだ。
その一方で、ここ一番の場面ではしっかり三振も奪えるのが田中将大の真骨頂。2011年は得点圏にランナーがいた場合のストレートの平均球速は148キロだったが、2013年は149.2キロと1キロ以上アップ。きちんとギアを入れ替え、失点をしない投球ができたのは、佐藤コーチと作り上げた理想的な投球フォームの賜物だろう。
また、ピンチになったら「スプリット」が定番になるなど、後のメジャー挑戦を見据えた投球内容になっていたと見ることもできる。つまりは、アメリカで投げる姿を想像して精進したことで、日本球界に燦然と輝く大記録を打ち立てたのだ。
「田中将大のひみつの大辞典」、次回は田中将大の投球フォームの「ひみつ」に迫ります。お楽しみに。
■ライター・プロフィール
オグマナオト/1977年生まれ、福島県出身。広告会社勤務の後、フリーライターに転身。
「エキレビ!」では野球関連本やスポーツ漫画の書評などスポーツネタを中心に執筆中。
『木田優夫のプロ野球選手迷鑑』(新紀元社)では構成を、
『漫画・うんちくプロ野球』(メディアファクトリー新書)では監修とコラム執筆を担当している。ツイッター/
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