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1959年1月に起きたキューバ革命によって、帰国できなくなったバルボンさん。僕はその顛末を聞いて、当時1950年代のキューバにおける野球はどんなだったのか、知りたくなりました。
「日本と比べたら、昔、キューバはグラウンドでこぼこやね。だから今でもキューバの野球、守りはみんな上手いんとちゃうか?」
来日して阪急で10年、近鉄で1年プレーしたバルボンさんは、ずっとセカンドを守っていました。守備には自信があったそうで、「でこぼこのグラウンド」でとっさのイレギュラーに反応しないといけないから、キューバでは自然に上手くなっていくというわけです。
「結局、守りはスタートやな。やっぱり、バットの先見てたらね、だいたい打球の方向わかるわ。バットがここまできたら向こう行く、ここなら真っすぐ行く。手を返す。返したら、絶対こっちへ飛ぶ。バットの先に反応して判断できたらいいスタート切れる。打ってから行ったらものすごい遅いわな」
キューバの野球事情についてはあまり話が広がらなかった代わりに、バルボンさんの野球センスを実感できる話が聞けました。
「ボク、バッティングだけあかんかった。これははっきり言うとくわ。残ったのは千本安打だけやな。でも、守るのと走るのと、あとはインサイドベースボールには自信あった」
盗塁のときに牽制するピッチャーとの駆け引き、そのなかでピッチャーのクセを盗んで把握してスタートを切ること。
バルボンさんにすれば、こうした技術は当然、持っているものであって、まだクイックモーションもなかった当時の日本のプロ野球、「そらもう、よう走れたわな。クセもある程度、見ていたらわかったから」と言って、続けてこんな話をしてくれました。
「昔の日本の野球、まだまだやったと思うわ。だってボクが来た年、ヤンキース来日したけど、日本の選手、試合で速い当たり来たら、みんな『おおっと』って逃げたわ、ホンマに。だから、まだまだ、まだまだやったんやな」
1955年、今から58年前のシーズンオフ、ヤンキースが来日して行われた日米野球。このときは全日本、全セ、全パ、単独球団など、さまざまなメンバー構成のチームで16試合を戦っているのですが、日本はひとつも勝てずに15敗1分け。
バルボンさんの話はこの戦績を裏付けるとともに、名門ヤンキースに太刀打ちできなかったというよりも、日本のプロ野球がまだ、メジャーと対等に戦えるレベルに達していなかったことを教えてくれます。
そしてそれがまた、キューバ出身の野球人によって、日本語で、関西弁で、笑顔で話されるというリアリティ――。今も深く印象に残っています。
現役時代の話に続いて、阪急で通訳を務めていた頃の思い出をうかがって、気がつけば1時間。スカイマークスタジアム(現ほっともっとフィールド神戸)の応接室で試合前に取材していたので、そこでタイムリミットとなりました。
その後、「できれば、バルボンさんが仕事をしているところを撮影させていただきたいです」とお願いすると、「今日は試合を見るだけや」とのこと。
試合開始まで50分。客席はまだ埋まっていなかったので、一緒にバックネット裏に行って、座っている姿を遠くから撮らせてもらいました。
撮影が終わっても、バルボンさんは腕組みをしてグラウンドに目を向けたまま。終わったことを伝えにいくと、ずっと笑顔だったバルボンさんの表情が一変して厳しくなっていました。野球の現場に入った途端、オフからオンに切り替わったのかもしれません。
声をかけるとパッと笑みが広がりましたが、僕はその厳しく精悍な顔に、「1番、セカンド、バルボン」を見たような気がしました。