【カラバイヨ(オリックス)インタビュー】一度は決断した引退!? オリックス復帰までの軌跡を告白!
【この記事の読みどころ】
・念願のNPB入団も、骨折の影響で無念の退団
・ラミレスから伝授された教えが、大きな成果を生む
・オリックス復帰を果たした真相とは?
☆念願、NPB球団からのオファー
2010年春、まだからっ風が吹きやまない群馬にカラバイヨは降り立った。この年、彼はプレーの場を四国九州アイランドリーグの高知からBCリーグの群馬ダイヤモンドペガサスに移した。奇しくも、2009年の秋、独立リーグ・グランドチャンピオンシップで対戦した相手チームにいくことになった。
前年にリーグ制覇した群馬の強力打線の中でも、リーグ全体で見ても、カラバイヨの存在は断トツで光っていた。リーグ戦前半の39試合で打率.354、15本塁打の成績を残すと、ついにNPB球団が動いた。オリックス・バファローズがオファーを出したのだ。
NPBの環境は、それまでとは全く違ったものだった。
「やりやすかったね。選手とも仲良くできたしね。試合終わってからも、みんなでジムに行ったりしてたよ」
仲良くなった選手は? と尋ねると――
「鈴木さん(郁洋/ 現バッテリーコーチ)、下山さん(真二/現打撃コーチ)、小川コーチ(博文/打撃コーチ)、みんなよくしてくれたよ」
という答えが返ってきた。復帰した今、コーチとなった彼らは、カラバイヨの良き相談相手になっている。
シーズン途中のデビュー戦でさっそく本塁打を放つと、このシーズンは、113打数29安打、そのうち本塁打7本という途中入団としては、まずまずの成績を残した。しかし、シーズン終盤に左手首を骨折、これが尾を引き、翌年のキャンプで同じ個所を痛めてしまう。シーズン後半に復帰するも、結局、数字を残せず、退団に追い込まれてしまった。
☆大きな成果を得た、ラミレスの小さな教え
翌2012年は、アメリカ球界に復帰、かつてプレーしたカンナムリーグのニュージャージー・ジャッカルズでプレー。レギュラーとして打率.314、19本塁打と復活を果たした。
「日本でプレーしたかったんだけど、契約が取れなかったんだよ。でも、自分ではもう一度チャンスをもらえれば、活躍できると思っていたんだ」
日本球界復帰を虎視眈々と狙うカラバイヨのもとに、シーズン後、代理人から電話がかかってきた。
「群馬が戻って来い、コーチ兼任でどうだ? って言ってるよ」
古巣のオファーを断る理由はなかった。
実際には、コーチ兼任といっても、後輩選手から聞かれたことにアドバイスするくらいだった。プレーに専念させてくれる球団の配慮がありがたかった。そのコーチの肩書だが、翌シーズンには「補佐」の二文字がつくようになった。もうひとり兼任コーチが入団してきたからである。それがアレックス・ラミレスだった。
「ラミちゃんは、ベネズエラでも有名人。前から知った仲だったけど、ありがたかったね」
自身もまたNPB復帰を目指すラミレスだったが、カラバイヨに日本で培った知識を惜しむことなく伝授した。
「一番教わったことはメンタルですね。打席ごとのアプローチ、キャッチャーはどんな攻めをしているとか。あるいは、初球がボールだったら、次はストライクを取りたくなるもんだ、というピッチャー心理を学んだね。そういうことを彼はちゃんとメモしているんだ。ベネズエラでは、そういう選手を見ることはなかったね。でも、今から考えると、成績を残している選手は、どこかでそういう努力はしていたんだろうな」
ラミレスの教えで、大きくは変わったわけではないという。しかし、日本で成功を収めるには、目に見えないほんの少しの違いが大きくモノをいった。
2014年シーズン、カラバイヨは文句なしの成績で三冠王に輝いた。
☆一度は引退を決断……しかし、歩んだ道は古巣復帰へ
「これで、NPBから声がかかると思ったんだけど……かからなかった(笑)。12月になっても連絡がなくて。それで、もう1年、群馬でプレーするか、もう野球は辞めようかって考えたんだ」
すでにアメリカ・ニュージャージーに居を構え、親戚とともに事業も立ち上げている。「いつ引退してもいい」と昨年は口にしていた。妻子持ちの身としては、そろそろ、自分の夢を諦めねばならないことは身に染みてわかっていた。
「もう引退しよう」
カラバイヨは、一度そう決断を下した。しかし、年が明けると、彼はプエルトリコに飛んだ。現地のウインターリーグの名門、マヤゲス・インディオスのプレーオフ要員として。
「あれは、ラッキーだったね。もう辞めるって思ってから、体も動かしてなかったんだよ。でも、1月10日くらいかなあ、代理人から連絡があって、『フランキー、オリックスがトライアウトしてくれるから準備して』って。声をかけてくれて嬉しかったね。もう一回がんばろうと思ったんだけど、アメリカは雪が降っていてトレーニングできるような状況じゃなかったんで、とりあえず、ジム行って、そこでちょっとキャッチボールをして。そうしたら17日くらいに、マヤゲス球団から電話があったんだよ。『プレーオフに備えて一塁手がほしいんだ。来てくれ』って」
最後のチャンスをつかむべく、ウインターリーグの舞台に立った。
「実は、最初は断ったんだ。『もうピッチャーの球を3カ月くらい見ていないから、できるかどうかわからない』って。それでもいい、っていうからプエルトリコへ行ったんだ」
結局、ウインターリーグでは3打席しか立つことはなかった。それでも暖かいプエルトリコで練習をし、コンディションは整えることができた。
4年ぶりになるNPBのキャンプでは、ハードなメニューに最初は戸惑ったという。
「久しぶりのチームとしての練習が日本のチームだったから、ちょっときつかったかな(笑)」
キャンプへの参加は、あくまでテスト生という立場のものだった。それでも、プエルトリコでのプレーが功を奏したか、カラバイヨは動きのよさをアピールし、見事契約を勝ち取った。
年俸は1000万円。大型補強をした球団にあっては「格安」に部類される補強だった。そして、それは彼があくまで補強にほころびが出てきたときの保険でしかないことを示していた。その立場についても、カラバイヨは気にならなかったと言う。
「元からそういう話だったからね。チームには、たくさん外国人選手はいたけど、仲間がたくさんいて、自分としてはうれしかったね。テストの際も、もし契約すれば、ファームからになる、いつでも1軍に上がれるように準備してて、って言われていたしね。1軍でも十分にやれる自信はあったけど、仕方ない。やっぱり我慢が必要だと思ったよ」
しかし、出番は思ったより早く回ってきた。開幕4カード目、故障者が続出するチームに合流したカラバイヨは、いきなりスタメンで出場すると、本塁打を放つ。そこから快音を連発し、チームは低迷するものの「救世主」として活躍した。
最後に今後の展望を聞いた。引退後のことを考えて彼はニュージャージーのトラック運送会社を立ち上げている。カラバイヨは笑ってこう答えてくれた。
「そっちは、いとこに任せているよ。今は野球に専念したいね。契約してくれるならば、できる限りオリックスで野球を続けたいと思っているんだ」
アメリカのハイウェイをトラックで飛ばすカラバイヨも粋なように思えるが、我々はやはりあの逞しい体から放たれる豪快なアーチを今しばらく楽しみたい。
■ライター・プロフィール
阿佐智(あさ・さとし)/1970年生まれ。世界放浪と野球観戦を生業とするライター。「週刊ベースボール」、「読む野球」、「スポーツナビ」などに寄稿。野球記事以外の仕事も希望しているが、なぜかお声がかからない。一発当てようと、現在出版のあてのない新刊を執筆中。ブログ「阿佐智のアサスポ・ワールドベースボール」(http://www.plus-blog.sportsnavi.com/gr009041)