放送中止と常に隣り合わせ?初の甲子園、高校野球実況はハプニングだらけ!!
1915年にその歴史をスタートさせた高校野球。今年は大会100年の節目とあって、特にNHKはWEB上や番組企画において、さまざまな特集を組んで盛り上げに一役買っている。大会が始まってからも、連日に渡って試合を実況中継してくれるテレビやラジオのアナウンサーの皆さんには今から敬意を表したい。
そもそも日本のスポーツ界で初めて実況中継が行われたのは夏の甲子園であり、ここから日本のスポーツ実況の歴史が始まった、と言っても過言ではないのだ。そんな「実況中継はじめて物語」を紐解いてみたい。
【一人で8日間ぶっ通し、全試合を実況!!】
1927年、第13回大会より始まった甲子園のラジオ中継。この実況を担当したのが現在のNHK大阪放送局の魚谷忠氏という人物だ。1916年の第2回大会で市岡中の三塁手として出場した元球児で、上司から「野球経験者は魚谷だけだから、一人で全部やれ」と指令が下り、8日間に渡る全試合を一人で実況中継したという。
【野球放送のノウハウはまるで無し……手探り状態での放送開始】
「それまでは5分くらいのニュースしか読んだことがなかった」という魚谷アナ。何にしても手探り状態での実況放送が始まった。「バッター打ちました! 大きい、大きい!」だけで、何処に打球が飛んだかサッパリわからず、放送は試行錯誤の連続。当時、郵便や通信を管轄する中央官庁であった逓信省の役人からは「外野の塀に書かれた商品などの広告にボールが当たった時は、宣伝になるからその商品を言ってはならない」といった細かい注文がつくなど、野球のプレーを実況する以外でも苦労が多かった。
【役人が横に座り、放送中止と隣り合わせの放送が続くも、放送は大好評!】
炎天下のなか、魚谷アナは蝶ネクタイに背広姿でネット裏の放送席に座り、横には市岡中の後輩野球部員がスコア係として一緒に座った。さらに逓信省の役人が「不確実なことを公表したら即刻、放送中止」という理由で左右を取り囲むように6人も座っており、宣伝とみなされたり、不確実な発言をした場合には、直ちに放送を中止する準備をしているなかでの実況放送だった。
こうした悪戦苦闘が実を結んだのか、野球中継放送の評判は予想以上で、魚谷アナにはファンレターも届いたそうだ。「経済市況放送なんか止めて、野球放送をしろ」というリスナーの要望が届くなど、野球中継の反響は大きく、開幕から1週間後の8月20日にはNHK東京放送局でも放送が開始された。
放送エリアが広がるにつれ、出場校を応援する各地方の高校野球ファンは地元高校の中継を楽しみに待った。ラジオの放送局が全国各地に広がりをみせていた時代の流れにちょうどマッチしたことも、甲子園の実況中継が支持を集めた要因だったといえるのではないだろうか。