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1世紀の期間で唯一の功績・大会3連覇!その過程にあった延長25回の死闘【高校野球100年物語】

 夏の甲子園の前身である「全国中等学校優勝野球大会」の第1回が行われたのは1915年。今に連なる高校野球が始まって100年が経過したことになる。『週刊野球太郎』の特集「高校野球100年物語」では、この高校野球史を振り返り、激闘、印象的な選手、その当時の世相など重要な100の物語を紹介していく。

 6月は戦前の出来事に絞って、物語を綴っていく。

〈No.022/印象に残った勝負〉
不滅の大熱戦! 延長25回を戦い抜いた明石中と中京商


 1933年夏、史上初の大会3連覇を目指す中京商とセンバツ準優勝の明石中が対戦した準決勝が8月19日午後1時10分に開始された。試合は中京商の先発・吉田正男と明石中の先発・中田武雄の両投手の好投で延長戦に突入。両チームともチャンスは作るものの、決定打が生まれずゼロ行進。当時のスコアボードは16回までしか表示できず、17回以降は得点板を継ぎ足して対応。さらに用意していた「0」のカードもなくなり、係員が白いペンキで書き込んで急場をしのいだ。

 そして迎えた延長25回裏。中京商は無死満塁のチャンスを作り、次打者のセカンドゴロの間に三塁走者が本塁へ生還。1−0で中京商が死闘を制した。「アンパイアも観衆もへとへとです」と実況アナウンサーは試合終了を告げた時刻は夕刻6時5分。試合時間は4時間55分だった。

〈No.023/泣ける話〉
甲子園史上に残る名フレーズ「泣くな別所、センバツの花」


 1941年春、戦前最後の大会となったセンバツ。その準々決勝、岐阜商対滝川中で伝説が生まれた。

 下馬評では、大会屈指の好投手・別所毅彦(元南海ほか)と強打者・青田昇(元巨人ほか)を擁する滝川中有利と見られていたが、蓋を開けてみれば岐阜商が1点をリードして最終回に。追う滝川中は走者一、二塁のチャンスで青田の打球は平凡なサードゴロ。ところが三塁手が悪送球してしまい、この間に二塁走者が還って同点。さらに一塁走者だった別所も本塁に突入したが、クロスプレーでタッチアウト。さらに、このプレーで別所は左腕を骨折してしまう。

 別所は折れた左腕に包帯を巻き付け、下手投げに変更して、延長線に入っても投げ続けたが、12回途中に力つきて降板。そして14回、岐阜商が勝ち越し点を挙げて、勝負が決した。翌日の誌面では「泣くな別所、センバツの花」の見出しで熱戦が讃えられた。

〈No.024/印象に残った選手〉
「スクールボーイ」沢村栄治が甲子園で見せた才能の片鱗


 黎明期のプロ野球を支えた大投手・沢村栄治が有名になった舞台は、やはり甲子園だった。創部間もない京都商に入学すると、1933年のセンバツに初出場。大正中(のち呉港中)のエース・藤村富美男(元阪神)や明石中の楠本保といった大投手と投げ合いを演じ、一躍人気投手の仲間入りを果たした。

 その後も1934年センバツでの先発全員奪三振や、地方大会での23奪三振など数々の伝説を残した沢村だったが、甲子園出場は1933年春と1934年春・夏の3回のみ。なぜなら、1934年秋に京都商を中退し、17歳にして日米野球に参加したからだ。沢村はこの日米野球で全米代表をわずか1失点に抑え、「スクールボーイ・ サワムラ」の名で話題をさらった。

イラスト:横山英史

〈No.025/印象に残った監督にまつわる小話〉
監督を捜し出すために試合が中断!? 黎明期の監督事情


 大会黎明期、ベンチ入りができるのは監督一人だけに限定され、しかも、その監督は学校の教師でなければならなかった。といっても、当時は野球の専門知識がある教師などそういるはずもなく、野球部OBの大学生などがコーチを務め、実質的な監督役としてスタンドからサインを出すこともあった。しかし、大観衆の中から一人の人間を捜すのは至難の技。そのため、タイムをかけてコーチを捜したり、補欠選手が試合中にスタンドに駆け上がって指示を伝えることも。これでは試合時間が長くなるばかり、と「教師でなくても学校が定めた監督ならベンチに座ってもよい」と規約が改正。この規約改正をきっかけに、学生野球はよりプレーが専門化されるようになった。

〈No.026/知られざる球場秘話〉
第1回センバツの会場は甲子園球場ではなかった!?


 日本に春の訪れを告げる「センバツ」。その前身である「全国選抜中等学校野球大会」は、1924年4月1日、愛知県名古屋市の郊外にあった「山本球場」で第1回大会の幕が開けた。中京地区の野球振興の目的もあって、この地が選ばれたのだが、同年夏に甲子園球場が開場したことから、翌年の第2回大会からセンバツも甲子園で開催されることとなった。

 ちなみに「山本球場」の名前の由来は山本権三郎という人物が造ったから、という説が有力。外野が狭く、第1回大会は8試合で12本も本塁打が生まれている。その後、1947年に当時の国鉄が買収して「国鉄八事(やごと)球場」に名称変更。さらに国鉄が分割民営化されると「JR東海八事球場」に名前が変わり、遂には1990年に閉鎖。現在、マンションが建てられている球場跡地には、記念のモニュメントが設置されている。

〈No.027/時代を彩った高校〉
史上唯一の「大会3連覇」。絶対王朝、中京商の時代


 100年の歴史を誇る高校野球において、たった1校しか達成できていない大記録、それが1931年から1933年にかけて中京商が達成した「大会3連覇」だ。1931年夏、台湾代表の嘉義農林を倒して大会初出場にして初優勝を達成。翌年夏も、延長戦の末に四国代表の松山商を下して史上3校目の大会連覇を達成した。そして、1933年の甲子園。準決勝・明石中戦との延長25回の死闘を制すると、翌日の決勝では京津代表の平安中を2−1で振り切り、前人未到の大会3連覇を達成した。この3年間、エースとして君臨した吉田正男は、夏の大会14連勝(無敗)、甲子園通算成績23勝という金字塔を打ち立てた。

〈No.028/世相・人〉
「我々は見せ物ではない」……甲子園「行進」エピソード


 甲子園大会に花を添える開会式と閉会式。その際、なくてはならないトピックスが球児たちによる一糸乱れぬ場内行進だ。開会式での入場行進は1917年夏の第3回大会から実施されていたが、現在のように校名プラカードによる先導が始まったのは1929年のセンバツから。これは1928年のアムステルダム五輪に出場して銀メダルを獲得した人見絹枝氏のアイデアだった。同様に人見氏の発案により、この大会から勝利チームによる試合後の校歌斉唱・校旗掲揚も始まった。

 また、閉会式での優勝チームによる場内一周。球児であれば誰もが憧れるこの栄誉を拒否したのが1919年、第5回大会で優勝した神戸一中。「我々は見せ物ではない」と断固拒否を貫いた。


■ライター・プロフィール
オグマナオト/1977年生まれ、福島県出身。広告会社勤務の後、フリーライターに転身。「エキレビ!」、「AllAbout News Dig」では野球関連本やスポーツ漫画の書評などスポーツネタを中心に執筆中。『木田優夫のプロ野球選手迷鑑』(新紀元社)では構成を、『漫画・うんちくプロ野球』(メディアファクトリー新書)では監修とコラム執筆を担当している。近著に『福島のおきて』(泰文堂)。Twitterアカウントは@oguman1977(https://twitter.com/oguman1977)

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