阪神・関本賢太郎 脇役として貪欲に野球に取り組んだ19年間の物語
決して、レギュラーへの執着心がなかったわけではない!
内野ならどこでも守り、1番と4番以外の打順はどこでもこなしたユーティリティープレーヤー・関本賢太郎が、脇役としてのプロ野球人生を終えた。
「最後に打てなくなって野球が嫌いになるのがイヤだった」
関本らしい引退宣言であった。余力を残しながらも引退を決意した関本の19年間を振り返ってみる。
【雌伏期】長距離砲を目指すもケガに悩んだ、ファーム時代(1997年〜2001年)
1996年、関本はドラフト2位で天理高から長距離砲の期待を込められ阪神タイガースに入団。ドラフト3位には同じ関西出身のスラッガー・濱中治がいた。
ルーキーイヤーの1997年、まずは濱中のフリー打撃に度肝を抜かれた。ただ
飛ばそうと闇雲に振っていた自分とは異なり、濱中は理にかなってスイングしていた。同じ高卒1年目で、濱中のほうが後に指名されたのにもかかわらず、野球に対する意識の差は歴然としていた。
「このままでは1軍には上がれない」。関本の脳裏に不安がよぎる。
また、ファーム時代の関本は、ケガとの戦いでもあった。2000年に初の1軍昇格を果たすも右肩を故障。翌2001年シーズンを、ほとんどを棒に振ることになった。
【変革期】自らの考えも打撃スタイルも変更(2001年オフ〜2003年)
5年目のシーズンを終え、結果の出ない関本には“変わる”ことが求められていた。
2001年オフ、藁にもすがる思いで坪井智哉(元阪神ほか)に「弟子入り」を志願した。自主トレから過酷な練習で知られる東芝の練習に参加するなど、ストイックさでは有名な坪井なら、甘さが残ってしまう自分が変えられるはずだと。
坪井に感化され、練習量が増えたことで体が強くなったことが19年間に及ぶ現役生活の土台になった。さらに「なぜヒットを打てたのか、逆になぜ打てなかったか」を常に考える重要性を説かれ、次につながるプレーを貪欲に考えるようになる。
成果はすぐに現れ、2002年シーズンはプロ初安打、71試合出場、打率.254、5本塁打とそれまでとは格段の進歩を遂げる。
もう1つのターニングポイントは2003年の日本シリーズ第7戦にある。
打撃練習から絶不調だった関本は、野球人生で初めてバットを短く持ち打席に立った。すると、和田毅(当時ダイエー)のスライダーを左翼席に叩き込み、ミートすることの大事さに気づいた。
中距離打者に生まれ変わり、翌年からの飛躍に繋がったことは言うまでもない。
【全盛期】ユーティリティープレーヤーとして活躍(2004年〜2009年)
2004年からの関本は、藤本敦士、今岡誠、新井貴浩、平野恵一と激しいポジション争いをするも、不動のレギュラーの地位を確立するまでは至れず、常に控え選手としてのレッテルがつきまとった。
当時のことを関本は「自分を熟知している岡田彰布監督が使わないのは、自分に何かが足りないからで、使われないことに腐ることはなかった」と振り返る。
2008年登録名を「健太郎」から「賢太郎」に変更。スタメンの機会も増え、成績もアップ。ユーティリティープレーヤーとして、チーム内で存在価値を高めていく。
【晩年期】“代打の神様”として準備を怠らず(2010年〜2015年)
2010年にはスタメンでの出場は激減。2011年は国内FA権を取得し、権利行使するも阪神に残留。
その後、関本は阪神では八木裕、桧山進次郎に次ぐ3代目“代打の神様”として、チームの勝利に貢献する。