育成選手からレギュラーに特進した亀澤恭平(中日)からは想像しがたい?クールな独立リーグ時代/file#033
まだソフトバンク時代の亀澤恭平と再会したのは昨年10月、『みやざきフェニックス・リーグ』が行われている宮崎でのことだった。「ウエスタン打撃成績10傑入りおめでとう!」と言って握手をした。
「また、オレの記事書いて下さいよ!」
「そりゃ、書きたいけどさあ。機会があったらよろしく!」
そんな話をしている。あれから7カ月。その間に、チームを移籍し、3ケタだった背番号は2ケタへ、そして、1軍のレギュラーを獲得。亀澤を取り巻く環境は大きく変わった。
☆当時から貫く野性味溢れる全力プレー
四国アイランドリーグplus・香川オリーブガイナーズから育成選手として入団して3年目、ソフトバンクのスカウト氏に聞くと「2軍にいることが評価されている証拠」と言う。結果を出しながらも支配下登録には届いていない亀澤のことを、彼を知る四国リーグの首脳陣、ファンの多くが気に掛けていた。だからその後、「中日が秋季キャンプで亀澤をテスト」の一報が飛び込んで来た時には「なんとかこのチャンスを生かしてくれ!」と強く願ったものだ。
四国リーグでプレーしたのは2011年、1シーズンのみである。縁あって飛び込んだ香川で、すぐに存在感を発揮している。足を生かした守備と打撃で、早々に一番・遊撃手のポジションを獲得した。開幕してまもなく、視察に訪れていたあるNPB球団の編成部長が「亀澤、いいねえ!」とつぶやいたことを覚えている。思わず「どこがいいと思われますか」と尋ねると「何かセンスを感じるんだよね。いいよ! あれは」と語っていた。
第1打席の出塁率が高い。四球を選ぶことはもちろん、三遊間、二遊間方向への内野安打で出塁する。その俊足で、焦った野手のミスを誘うことも多かった。「全力プレー」を体現したようなプレースタイルで、前半の5回を終わるといつもユニフォームは真っ黒。ほぼ毎試合でヘッドスライディングを見せる。そんな野性的なイメージがあった。
最初にインタビューしたのは、後期リーグ戦開幕直後の7月上旬である。ここまで35試合にフル出場し、打率も開幕以来3割をキープし続けている。しかし、話しぶりはプレースタイルとまるで正反対の非常に落ち着いたものだった。自分が考えていること、やろうとしていることを1つ1つ丁寧に、確認するように話す。取材中、難しい表情は見せても、笑顔はほとんど見せない。
全力プレーにも、ちゃんとした理由があった。
「独立リーグからNPBに上がった先輩の話を聞いていると、どの選手にも共通して言えるのが全力プレーなんです。『手を抜かない』とか、そういう言葉ばっかりだったんで。自分も見習わないといけないと思いますし、スカウトの方もそこを見ていると思いますし」
よく考えられるだけでなく、「ちゃんと聞くことのできる耳を持った選手だな」と感じた。
☆自ら手に入れた明るさが、いまや武器の1つに
だが、8月に試練が訪れている。試合が始まると毎回気分が悪くなり、トイレへと駆け込む。不思議なことに試合前はなんともなく、試合が終わると何事もなかったかのようにスッキリしている。あとから分かったのは「全力プレーを続けて結果を残さないと!」と自分にプレッシャーを掛け続けたことによる、過緊張が原因だった。
そうやって乗り越えた1年目の終わり、ドラフト指名された亀澤に「四国リーグからNPBの壁を破るにはどうしたらいいか」を質問している。
▲2011年のドラフトで香川から指名された4選手とともに(一番左が亀澤)
「大学時代、必要なのは『野球センス』だと思っていました。“センスが10割。努力なんかいらない”
でも、ここに来て僕のなかではたくさん努力したので。センスだけでは言い切れない部分も見えた。センス4割、努力6割。ちょっと努力の方が多いかなと思います」
現在、中日で「ムードメーカー役を買って出ている」と聞いた。初めてインタビューした時のクールさを思うと不思議な感があるのだが、言われてみればソフトバンクに入団してからの亀澤は、会うごとに香川時代には見せなかったような笑顔でこちらを迎えてくれていた。きっと「自分を変えなきゃいけない」と考える必要があったのではないだろうか。
四国で上を目指していた、あの頃から4年が経った。いま、中日のユニフォームを着て躍動している姿を見ると、とても喜ばしく思う。
■ライター・プロフィール
高田博史(たかた・ひろふみ)/1969年生まれ、徳島県出身。2005年の四国アイランドリーグ発足時から取材を続けるスポーツライター。「現場取材命」を信条に精力的に活動中。