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前回『知られざるナックルボーラー(前編)
』はこちら。
なんと、小学5〜6年生のときには、軟式のボールでナックルを投げていたという三浦さん。しかも、野球の本や雑誌でナックルという球種があることを知って、それから覚えたわけではないというのです。
「小学生のときはナックルなんか知らない。当時、ナックルほうるのはアメリカにしかおらんかったろうけど、あの頃はそういう連中のことも一切、知らんわけやから」
三浦さんは1938年生まれですから、「あの頃」とは1950年前後。確かにアメリカ、MLBではその40年ほど前にナックルを投げる投手が出現していて、1950年代以降、ナックルを武器に名を馳せる投手も出始めます。
しかしながら、当時の日本はまだ、野球のマスコミも発達していなかったので、米球界の情報も入りにくい。戦後間もない頃ですから、子供向けの野球解説書なども少なかったことでしょう。
そんななかで三浦さんは、独学というよりも、一人遊びの一環でナックルに行き着いたようです。その握りで投げていた球種が、「ナックル」と呼ばれているとは知らずに。
「あとから、あぁ、これはナックルというんやな、とわかって、ちゃんと覚えたのは高校生のとき。だけど、小っさいときは自分でね、いろいろ遊びながら、まだ、まだほかにあるやろと。だから、誰に教わったんでもない」
小学高学年にして、「まだほかにあるやろ」と探究する力。他人に教えられる前に、自分で発見してしまう力。僕はその能力こそ、三浦さんが後々プロで活躍できた原点と直感したのですが、そのナックルは、高校野球では威力を発揮できなかったようです。
「僕のナックルは変化がすごくてキャッチャーが捕れんから、ほうったとしてもパスボールばっかりになる。南海でも、ウチの連中とキャッチボールするときに『三浦さん、そんなすごいんやったらほうってみい』言われて、ほうるやろ? まぁ〜皆、顔に当てて。眉間切ったり、額に当てたり」
高校球児のみならず、プロの選手でも捕球困難だったナックル。マッシーさんにうかがったとおりだと思い、キャッチャーが捕れなかった話を持ち出すと、三浦さんは笑い混じりに話し始めました。
「キャッチャーなら、野村克也という人がもうナックルを嫌うわけ。自分で捕れんから。ブルペンで真っすぐ、シュート、スライダーとほうって、最後、『ナックル行くぞー』言うたら、野村さん、『おっ、交代』っつって、若いキャッチャーに捕らせる」
名捕手の野村でさえ捕れず、嫌われたナックル。よほど素晴らしく変化した裏返しと言えそうですが、そこで思い浮かんだのが、ティム・ウェイクフィールドのナックルの軌道でした。比較対象として、ぶつけてみたくなったのです。すると三浦さんは、その軌道もしっかりと見ているようで、即答してくれました。
「僕のはあんな遅いボールじゃない。遅いかわりにコントロールがええわね、そのピッチャーのは。僕のヤツは自分でもどこ行くかわからんけど、ビュビューッと行く。みんな、ナックルいうたら、遅い、思うとるでしょ? 結構、速かったんです。そら、キャッチャー捕れんよ。だから、そのピッチャーのナックルやったら、野村さんもほうらすでしょうね」
ウェイクフィールドのようなナックルだったら、野村も配球のなかで生かしていた可能性。生かそうとしなかったのは、不規則に変化する上にスピードがあるため、捕球できなかったから……。
それでも、捕れないから完全に封印されたわけでもなく、野村はナックルのサインを出したあとには中腰になって構えたそうです。つまり、来た球を叩き落として止めようというわけです。
「キャッチャー、中腰になったらバッターは全部わかるわけでしょ? でも、わかっても僕のナックルは打てんねん」